第三部 異郷の声 69 祈りの音
聞き取れた言葉が、意味を知ったことになるとは限らない。
まずは、その場にいる人の声を聞く。
週の終わり、町の小さな広場で、旅人たちの無事を願う祈りが行われた。
荷車を出す商人、町へ戻ってきた職人、遠くへ帰る家族。
集まった人々の服装も言葉もまちまちだった。
エリゼーは人垣の外で、ハインツと並んで立った。
少し遅れてヘルマンが現れた。
彼の横には、ジュリア・ロッソがいた。
「保管室の方に聞いて、今日はここだと教えてもらいました」
ジュリアは息を整えながら言った。
「仕事は?」
「終わらせてきました。私がいなくても、必要な問い合わせは受けられるようにしてあります」
ハインツが場所を少し空けた。
広場の一角で、旅支度をした女が子どもの襟を直していた。
子どもは指先を口元へ寄せ、誰かに教えられた言葉を小さく繰り返している。
祈りを導く人が、深く一度息を吸った。
祈りの輪の端で、老人が椅子を一つ動かしていた。
足の悪い人が人垣の向こうを見られるようにするためだった。
椅子の脚が石畳の隙間に引っかかると、ジュリアが近づいて一緒に持ち上げた。
「ここでいいですか」
座る人が頷く。
エリゼーは二人が戻るのを待った。
広場には、祈りの始まりを待つ静けさが広がっていた。
誰かに命じられたものではなく、荷を置き、話を切り上げ、周りの人のために場所を空けることで生まれた静けさだった。
「仕事が止まると、音が増えるのね」
エリゼーが小さく言うと、ハインツは首を傾けた。
「増える?」
「人が息をする音。水桶が揺れる音。遠くで誰かが帰る音」
ハインツはしばらく聞いていて、頷いた。
声が重なった。
「エゴ・ウォロ・ウト・エンテラフィアス・セクリターテム・フイク・コルポリ・プラエベアト」
エリゼーも知っている、安全を願う祈りだった。
言葉の順序は変わらない。
しかし前列の人は句切りを短くし、後ろに立つ人は最後の音を長く伸ばした。
別の声は、途中に一度、静かな間を置いた。
ジュリアが身じろぎした。
「同じ言葉なのに、記録すると同じ一行になってしまいますね」
「ええ」
エリゼーは答えた。
「でも、今は聞いていたい」
祈りが終わると、子どもが急に母親の手を引いた。
声がやんだとき、広場の空気はすぐには元へ戻らなかった。
誰もが同じことを願ったわけではないのに、しばらくは互いの息遣いが聞こえた。
エリゼーは石畳の上に立っていた。
自分には魔法を発現させる力がない。
その事実は変わらない。
しかし今の祈りが、何もなかったという言葉だけで片付けられるとも思えなかった。
隣でハインツが息を吐いた。
「君は唱えた?」
「心の中でね」
「何を願った?」
「ここにいる人たちが、帰れるように」
「それなら、私も同じだ」
彼は笑わずに言った。
昔、誰かの安全を願って決めたことが、かえって相手を追い詰めた経験がある。
エリゼーはその記憶を消さなかった。
ただ、今は目の前の人の望みを聞いてから手を出したいと思った。
広場の端で、荷車の鈴がひとつ鳴った。
荷車の車輪の下に、小さな石が挟まっていたのだ。
近くにいた商人が車輪を押さえ、母親が子どもを後ろへ下がらせた。
ヘルマンは車輪の下へ板を差し入れた。
「ゆっくり動かしてください」
車輪が石を越えると、商人は胸をなで下ろした。
誰も怪我をしていなかった。
「祈ったおかげだ」
通りがかった男が言った。
「板を入れてくれたおかげでもあります」
母親が笑って返した。
ヘルマンは板を持ち上げて、肩の上の埃を払った。
「どちらでも、無事ならいい」
エリゼーはその言葉を聞きながら、言い争いにならなかったことに安堵した。
誰も祈りを否定せず、誰も人間の手を忘れなかった。
***
帰り道、ジュリアが小さな紙を取り出した。
「さっきの祈りを書いてみたんです。でも、音の長さをどう表すか分からなくて」
「あなたは書き留めたいのね」
「はい。次に聞いたとき、違いに気づけるように。でも、これを正式な祈祷文の写しとして出すつもりはありません」
エリゼーは紙を受け取り、幾つかの記号を見た。
長く伸びる音には横線が引かれ、息継ぎの場所には小さな印がある。
「これは便利かもしれない。でも、書き方を決める前に、唱える人に確かめたい」
ジュリアは頷いた。
「聞き直せる場所へ行ってみたいです」
ヘルマンが言った。
「聞き直すなら、今のような広場より、いつもの仕事をしている人のそばがいいでしょう」
「仕事の邪魔になりませんか」
「ならないか、先に聞けばいい」
三人の話を聞きながら、ハインツが笑った。
「ずいぶん遠い道の話になりそうだ」
エリゼーは広場の方を振り返った。
ひとつの祈りが、今まで見なかった道筋をそこへ引いているように感じられた。
祈りの言葉だけでなく、その言葉を唱える人の声と間合いも聞き取っていきます。




