第三部 異郷の声 67 災いの伝え話
古い災いは、土地によって違う声で語り継がれる。
話されなかった部分にも、人々の暮らしがある。
北門の広場に、旅から戻った馬を洗う小さな水場があった。
ヘルマンはそこで靴についた泥を落としていた。
エリゼーが訪ねると、彼は手元の紐を結び直しながら顔を上げた。
「この間の板は、まだ役に立っていますか」
「渡し守が補強したそうです。私たちが借りた道具も返しました」
「それならよかった」
彼は水場の端に腰を下ろした。
「あなたが聞きたがっていた祈りのことですが、村ごとに何もかも違うわけじゃありません。よく似た話が、違う結末になっていることがあります」
「どういうこと?」
「遠い昔、山あいの村で大きな災いがあったという話です。川が道を飲み、畑に石が積もり、人が家へ戻れなくなった」
エリゼーは黙って聞いた。
自分の扱う資料にも水と避難を記したものがある。
だが、同じ出来事だと考えるだけの手掛かりはない。
「私が幼いころ聞いた話には、丘へ人を導いた女が出てきます。別の村で聞くと、子どもたちが互いの手を引いた話になる。祈り手が夜明けまで唱え続けたという村もあります」
「どれが正しいと教わったのですか」
「誰にも決めてもらっていません」
ヘルマンは笑った。
「祖父は、話が違っていても、逃げる道を知っておくことが大切だと言いました」
近くで馬が鼻を鳴らし、桶を倒した。
ヘルマンは話をやめて立ち上がった。
エリゼーも桶を拾い、縁の欠けた部分を確かめた。
馬の持ち主は謝りながら水を汲み直した。
「どうしてそんな話を今もするのでしょう」
桶を戻してから、エリゼーは尋ねた。
「怖がらせるためだと言う人もいます。子どもが山の道を覚えるためだと言う人も」
「あなたは?」
「どちらでもあるのでしょう。それから、もういない人を、家族が覚えておくためでも」
水場の反対側で若い母親が、子どもの手を握って道を渡った。
エリゼーは、その手の組み合わせを見つめた。
「あなたの故郷には、その災いの跡があるのですか」
「そう呼ばれる場所はあります。でも、昔から同じ地形とは限りません。川は流れを変えますから」
彼は足元の濡れた土を指でなぞった。
「私が知る範囲の話ならできます。土地の人のところへ行ったら、その人の話を聞いてください」
「いつか、訪ねてみたいです」
「道は遠いですよ」
「近いと思って聞いていたわけではありません」
ヘルマンは、その答えを少し意外そうに聞いた。
***
昼過ぎ、町の端の食堂で、ヘルマンは修理場の若い職人と再び顔を合わせた。
職人は故郷へ帰る荷車に乗るという。
「谷へ行くなら、どこで水を補給するのがいいですか」
「今の季節は、峠の下の泉を使った方がいい。上の水場は、雨が少なくて浅くなっている」
「昔は、あそこにも水があったと父が言っていました」
「昔の話で今の荷を運ぶと、帰り道で困ります」
ヘルマンは地面へ線を引いて教えた。
エリゼーも隣で聞いていた。
伝承は過去を残す。
しかし、水を求める人には、今日の泉の深さが必要になる。
ヘルマンはそれらを混同しない。
職人が出ていくと、ヘルマンは茶碗を伏せた。
「災いの話を聞くなら、あの水場も見た方がいいでしょう。語り手だけでなく、今そこに住む人たちの道ですから」
エリゼーは、自分が物語の都合のよい部分だけを拾おうとしていなかったか考えた。
古い言葉を知りたいと思うほど、現在の生活を見失いやすい。
食堂を出たあと、エリゼーは、公の通りに立つ石の道標を見に行った。
町の内と外を示すためのもので、崩れた文字の下に、何度も塗り直した矢印がある。
ある老人がそこで道を尋ねていた。
通りがかった若者は、石の矢印を指さすだけでなく、今は工事で塞がれている道を教えた。
「標には向こうとあるけれど、今日は右へ回った方が早いです」
老人は礼を言い、教えられた道へ進んだ。
エリゼーは立ち止まり、古い矢印を見た。
書かれたものは残り、道は変わる。
そのどちらかを偽りと決めるより先に、いつ誰のために書かれたのかを確かめなければならない。
この小さな道標さえそうなのだ。
何世代もかけて語り継がれた災いの話なら、なおさらだろう。
***
夕方、エリゼーはハインツにこの話をした。
彼は食卓へ椀を並べながら、途中で何度か尋ねた。
「丘まで登れた人は、誰が助けたんだろう」
「村によって違うと言っていたわ」
「一人の英雄がいる方が覚えやすいけれど、それなら助け合った大勢は忘れられてしまうね」
エリゼーは頷いた。
「話を聞いていると、記録には書ききれなかった人がいると思う」
「紙だけではなく、話す人にも会ってみたい?」
「ええ。でも、話を聞いて戻ったからと言って、それをそのまま教会の事実にしていいとは思わない」
ハインツは椀を置いた。
「君が聞きに行くなら、誰のために聞くのかも考えたいね」
エリゼーは、その問いをどう受け止めるか考えた。
知らない土地の悲しみを、自分の疑問を解くためだけに拝借することはしたくなかった。
夜、棚から取り出した地図には、川の先が短い線で途切れていた。
その先へ道がないわけではない。
ただ、この地図を描いた人が、そこまで歩かなかったのだろう。
災害の言い伝えが登場しますが、教会に残る災厄と同一の出来事とは確定していません。




