第三部 異郷の声 66 引き継ぐ理由
何を残すべきかを考えるとき、人は自分が離れた後のことまで考え始める。
ジュリアは三日後、前より小さな鞄を持って保管室へ来た。
「今日は書類を増やしに来たのではありません」
そう言って差し出したのは、一枚の作業表だった。
左側に資料の扱い方、右側に、誰の確認が必要かを書いた欄が並ぶ。
「前にお話しした二つの村の祈りの写しです。私たちの室では、原本をお預かりしていない。だから、何か聞きたいときに誰へ連絡するかを先に決めておこうと思って」
エリゼーは椅子を寄せた。
「よく考えたわね」
「そう言ってもらえるのはうれしいです。でも、まだ抜けがあると思います」
ジュリアは、作業表の最後の欄を指した。
「返事がなかったときです。私たちはつい、受け取った側の都合で期限を付けてしまう。でも、その土地では収穫期なら手紙を読めないかもしれない」
エリゼーは首を傾けた。
「そのときは、どうする?」
「催促する前に、こちらが待てる理由を書きます。急ぐ必要があるものと、ただ私が早く知りたいだけのものを分けたい」
若い書記が、棚の前から振り向いた。
「返事が来なければ調べられないままですね」
「そうです。調べられないこともあります」
ジュリアはためらわずに言った。
「書いていないから存在しなかった、とは言えないでしょう」
エリゼーは若い書記へ目をやった。
書記は口を閉じ、もう一度作業表を見た。
「私が前に誤写をしたとき、訂正前の紙も残しました」
「ええ。あのときは助かったわ」
「失敗しない人だけが記録を扱えると思っていました。でも、今は、失敗したことを残せる人が必要なんだと思います」
ジュリアが静かに笑った。
「それも、引き継ぐ理由ですね」
***
昼、二人は院内の通路に置かれた腰掛けで食事をした。
ジュリアは干した果物を半分に割り、エリゼーへ差し出す。
「なぜ記録の仕事を選んだの?」
エリゼーが尋ねると、ジュリアは答えを探した。
「子どものころ、父の手紙が一度戻ってきたことがあります。宛先の村の名前を、町の人が使う綴りで書いたから」
「それだけで?」
「その町には同じような名前の村が二つあったんです。手紙は回り道をして、半年も後に届きました」
ジュリアは果物の種を布に包んだ。
「大事なことは、手紙の中身だったはずです。でも届かなければ、何も伝わらない。だから、届け方も中身と同じくらい大切だと思ったんです」
「今でもそう思う?」
「ええ。ただ、今は、受け取る人の側にも事情があると考えます。読む準備のできていない人に、こちらが何もかも届ければいいとも思えない」
エリゼーはハインツの言葉を思い出した。
人は、自分のために決められるより、まず聞いてほしいことがある。
「もし、あの村へ行けたら」
ジュリアは言いかけて、言葉を止めた。
「何をしたい?」
「祈りを聞いてみたい。でも、今いる場所の仕事を誰かに押し付けるような行き方はしたくありません」
「それなら、まだ決めなくていい」
「はい。だから先に、残しておく人の仕事を考えたいんです」
午後、ジュリアは若い書記と一緒に作業表の誤りを直し
食事を終えて保管室へ戻ると、責任者から一つの確認が届いていた。
古い写しを別の部署へ貸し出せるか、という問い合わせだった。
「一覧には載っています。でも、移動の許可については何も書かれていません」
若い書記が言う。
「載っていることと、出せることは違うわ」
エリゼーは文書を見て、責任者へ条件の確認を求める返事を書いた。
ジュリアはそれを横で見たが、口出ししなかった。
「さっき、あなたならどう答えた?」
エリゼーが尋ねる。
「私は、先に頼まれた理由を聞いたと思います。移動しなければ済むことなのかもしれないから」
「それも必要ね」
二人は返書に質問を一つ足した。
理由が分かれば、相手の目的を満たしながら原本を動かさずに済む場合もある。
若い書記は、追記した行を読み直してから封を閉じた。
「問い合わせが増えてしまいましたね」
「増えた分だけ、あとで困らずに済むかもしれない」
ジュリアが答える。
エリゼーには、その言葉が単なる手続きの話には聞こえなかった。
相手のために先回りして答えを決める癖を、自分もまだ持っている。
質問することは、決めつけることとは違う。
、保管室の責任者に回す控えを作った。
自分の印だけで実施できない欄は、空白のまま残してある。
「空白が多いですね」
書記が言う。
「今は、これでいいんです」
ジュリアは紙を揃えた。
エリゼーには、その空白が怠慢には見えなかった。
誰かが次に判断するための場所だった。
ジュリアは、知らないことを残す勇気と、仕事を人に託す責任を自分の言葉で考え始めます。




