第三部 異郷の声 65 記録の若い手
記録の仕事を引き継ぐのは、同じ考え方の人間とは限らない。
だからこそ、任せる意味が生まれる。
保管室の朝、若い書記が扉を開けて言った。
「別の記録室から、照会のことで人が来ています」
エリゼーが顔を上げると、書記の後ろに女が立っていた。
髪をきちんとまとめ、薄い革の鞄を両手で抱えている。
「ジュリア・ロッソと申します。照会の写しを届けに来ました」
年はエリゼーより十ほど若く見えた。
若さというより、こちらの反応を待ちながらも視線を逸らさないところが印象に残った。
「遠いところをありがとう。こちらへ」
ジュリアはクローバーの家紋がついた鞄を持っていた。
それを机へ置いたが、すぐには開けなかった。
「封を切る前に、受け取りの印をいただけますか。差し出し元で、渡した順序を残したいと言われています」
「ええ。記録を見せてもらってから、受領欄へ書きましょう」
二人は互いの書類を並べた。
ジュリアは道中で濡れた鞄の隅を布で拭いた。
中に収めた紙には油を引いた覆いが掛けてあり、濡れた跡はない。
「雨の中を歩いたの?」
「北の通りだけ降っていたんです。こちらでは乾いていますね」
「町の空は狭いものね」
エリゼーが言うと、ジュリアは真面目な顔で空を見た。
「だから、同じ日の記録でも場所を確かめたいと思っています。『雨が降った』と一行に書くと、その町全部で降ったように読めることがあるから」
若い書記が笑った。
「そこまで考えませんでした」
ジュリアは書記を見つめた。
「私もいつも考えられるわけではありません。昨日、別の人に教わったばかりです」
エリゼーは、知らなかったことを隠さない人なのだと思った。
保管室には、年齢も職務も違う三人がいる。
そのうち誰か一人がすべてを知っている必要はない。
けれども、誰が何を確かめたかを曖昧にすれば、三人でいる意味も失われる。
若い書記は横でその順序を見ている。
ジュリアが差し出したのは、古い土地の祈りについて寄せられた公開可能な問いの一覧だった。
同じ言葉が村によって異なる音で伝わる例があるが、写しだけでは確認できないものも多い。
「私たちの保管室では、読みを一つに直すよう求められることがあります」
「直すと、どちらかの人の言葉が失われる場合がありますね」
エリゼーが答える。
「そう思います。ただ、違う形を並べるだけでも、その言葉を使う人には不親切かもしれません。読む人は、どれを使えばいいのか迷います」
ジュリアは小さな紙を一枚取り出した。
二つの村で祈りの同じ箇所を書き留めた、別々の控えだった。
「元の紙を見られるのは、それぞれの持ち主だけです。ここには写しと出所が分かる札を付けています。今はどちらも直さず置いておきたい」
エリゼーは頷いた。
「まず、その判断が必要だと思います」
若い書記が不安そうに言った。
「誤字だと分かったら、消した方がいいのでは?」
「間違いと違いは、別のものですよ」
ジュリアが答えた。
しかし、声は強くなかった。
「私だって間違えます。だから、どの紙を見て判断したのか残しておきたいんです」
その言葉を聞き、エリゼーは、雨漏りの日に若い書記が自分の判断を確かめながら動いたことを思い出した。
「今の話は、彼にも聞いてもらいたかったの」
ジュリアが初めて笑った。
「それなら、来てよかった」
***
午後、二人は保管室の窓際に並んで、差し出された写しを見た。
ジュリアは、分からない箇所に印を付ける手つきが速かった。
一方、決めてはいけない箇所になると、きっぱり筆を置いた。
「ここから先は、私だけでは分かりません」
「誰なら分かると思う?」
「唱えている人に聞くのが一番です。ただ、会ったとしても、その人が村の全員を代表するわけではありません」
「そうね」
「それに、行って帰るだけでは足りない気がします。暮らしの中で聞かないと」
エリゼーはヘルマンの言葉を思い出した。
祈りのあと、何をするか。
「ジュリア、あなたは現地へ行きたいの?」
「行ってみたいです。でも今の仕事を放り出して、とは思いません。どこまで引き継げるか、何を許可してもらうか、その段取りを考えたい」
エリゼーは彼女を見た。
自分が若いころ、聞きたいことがあるだけで世界へ飛び出せると信じた時期があった。
そのあと、残しておく仕事がどれほど大切かを知った。
目の前の女は、その両方を初めから考えていた。
帰り際、ジュリアは差し出し元への返信に必要な書類を整えた。
形式が違う二つの控えを混ぜずに、紐を別々に掛ける。
「また相談に来てもいいですか」
「もちろん。ただ、私も答えを持っているとは限らないわ」
「その方が話しやすいです」
扉のところで若い書記が、ジュリアに帳面の落ちない持ち方を教えた。
彼女は素直に教わり、鞄の紐を掛け直した。
エリゼーは二人を見送りながら、仕事を継ぐとは、自分と同じ手を作ることではないのだと考えた。
ジュリア・ロッソが登場します。
クローバーが家紋の赤いジュリアは個性的でスポーティで、力強いですが繊細です。
親しい呼び名「ジュリエッタ」「ジュ」は、関係の深まりに応じて使い分けます




