第三部 異郷の声 64 問いを持つ人
案内する人にも、行き先について知らないことがある。
互いの問いを交わすところから、関係は始まる。
川向こうの市へ行く朝、ハインツはエリゼーより先に靴を履いた。
「行くなら、私も同行するよ。君は人の声を聞くことに気を取られて、帰りの道を忘れそうだから」
「そこまでひどくないわ」
「この前、別の出口から出て、半刻も遠回りしたのはだれ」
エリゼーは言い返しかけて、やめた。
町の北門でヘルマンと落ち合う。
彼は小さな包みを二つ持っていた。
「布を直したものです。市の職人へ返すだけですから」
「魔法で直すのではないのですか」
「縫えば済むところを、なぜ祈り手に頼むんです?」
そっけない声だったが、叱ってはいなかった。
道は畑と細い水路の間を通った。
朝の空気は冷たかったが、歩くうちに日が背中を温めた。
ハインツは道沿いの石へ刻まれた小さな印を確かめていた。
「これは?」
「水路を掃除する順番を示すものです」
ヘルマンは立ち止まった。
「ここから先は隣の畑の人たちが手入れをする。印が消えれば、誰の仕事か分からなくなる」
エリゼーは石の脇にしゃがみ、草をよけた。
刻み目の周囲だけが、繰り返し手で払われたように滑らかだった。
「誰かが守っているんだな」
ハインツが言った。
「水が来なくなれば、すぐ困るからです」
ヘルマンは歩き出す。
この土地の人々も、同じ日を重ねているのだとエリゼーは思った。
境の向こうに特別な秘密だけを探すなら、目の前の水路の手入れを見落としてしまう。
ほどなく、荷を担いだ老人とすれ違った。
ヘルマンは道を譲り、荷が下り坂で揺れないか見送った。
老人は一度だけ手を挙げ、そのまま歩いていった。
短いやり取りには何の不思議もなかった。
ただ、この道を何度も使う人々の間には、言葉にしない約束があるらしかった。
川へ近づくと、積み荷を車から下ろしている人々が見えた。
渡し場が混んでいるらしい。
岸では、二人の商人が板を一枚挟んで言い争っていた。
板は荷を渡すためのもので、端が割れていた。
「このまま使えば、荷が落ちる」
「次の渡しまで待てと言うのか」
ヘルマンは二人に近づき、板を持ち上げた。
木の繊維が裂けている。
「小さい荷だけにしても危ない。別の板を探した方がいい」
「そんなことは見れば分かる」
「では、使うか使わないかは決められるでしょう」
商人は口をつぐんだ。
その間にハインツは、岸辺の小屋に積んである古材を見つけた。
渡し守に許可を取ってから、使えそうな板を一本引き出す。
「これなら幅は足りる。ただ、釘が出ています」
ヘルマンが道具を借り、釘を曲げた。
エリゼーは端を持ち、板を動かないよう押さえた。
三人の作業が終わると、商人たちは礼を言って荷を渡し始めた。
「祈り手を呼べば、荷を軽くできたのに」
一人が言った。
「荷が軽くなっても、割れた板は割れたままです」
ヘルマンが答えた。
市へ着くまで、誰もその話を引き延ばさなかった。
***
市場の端の茶屋で、エリゼーはヘルマンに尋ねた。
「あなたは祈りに関心がないのですか」
「そんなことはない。旅先で人が何を恐れるか分かることがありますから」
「それだけ?」
彼は湯飲みを見た。
「それだけではありません。でも、私の言葉で誰かの祈りを決めたくない」
ハインツが口を挟む。
「エリゼーは、神が何をしているのか知りたいんです」
「私自身の問いでもあるわ」
エリゼーは静かに言った。
「なぜ私には魔法が起きないのか、だけではないの。祈る人の望みが、何に向かっているのか知りたい」
ヘルマンは目を細めた。
「それなら、祈りを聞くだけでなく、その人が祈りを終えたあと何をするかも見た方がいい」
彼は茶屋の外で、濡れた布を干す商人を指した。
「雨が降らないよう祈る人はいます。でも、雨が降ったら荷を避ける。その手を見ずに祈りを聞いたって、半分でしょう」
エリゼーは答えなかった。
その言葉には、記録室で紙を守る自分の手も含まれているように感じられた。
午後、彼らは商人から布の包みを受け取った。
ヘルマンは受領した品をその場で開いて縫い目を確認し、代金の差額を確かめた。
「今日は仕事を見せてもらってばかりでした」
帰り道、エリゼーが言うと、ヘルマンは肩をすくめた。
「私は話すより、歩く方が得意です」
「それなら、また一緒に歩けますか」
「用事があるときなら」
ハインツが笑った。
「次は、私が道を確かめておこう」
エリゼーは、二人の間に気安い沈黙が生まれるのを感じた。
ヘルマンは神秘を解説する人物ではなく、仕事と土地の現実に根差した旅人として描きます。
バウマン先生、ごめんなさい




