第三部 異郷の声 63 旅人の面影
幼い日に救われた記憶は、見知らぬ誰かの姿に重なることがある。
似ていることと、同じ人であることは違う。
ヘルマン・バウマンは、町の北門近くにある荷車の修理場にいた。
訪ねていくと、彼は軸受けの古い金具を手に、職人と口論しているように見えた。
「この形で付けたら、坂で荷が片方に寄る」
「金具を取り換えるなら日が暮れるぞ」
「なら、荷を減らして行く。それなら今のままでも通れるか」
職人は金具を傾けて考えた。
「少しならな」
声は荒くなかった。
互いの仕事を確かめているだけだった。
男はエリゼーに気づくと、金具を作業台へ置いて近寄ってきた。
日に焼けた顔に、疲労を隠そうとしない目があった。
「何か用ですか」
「峠の向こうの村から来た方に、あなたのことを聞きました。祈りの言葉を知りたいのです」
「祈りなら、教会にあるでしょう」
「ほかの土地の声で、聞いてみたくて」
彼はしばらく彼女の顔を見ていた。
「ここは修理場です。まず荷車を戻してからでもいいですか」
「もちろん」
エリゼーは少し離れて待った。
荷を下ろす作業が始まると、一つの箱の縄がほつれた。
ヘルマンは箱を抱え直し、近くの若い職人に声をかけた。
「そっちを先に持てるか。無理なら置く」
若者は腕の位置を変え、短く返事をした。
二人で箱を下ろし終えると、ヘルマンは相手の掌を見た。
縄が食い込んで、赤い筋が残っていた。
「水で冷やしておけ」
それだけ言い、手桶をそばへ寄せた。
その動きに、エリゼーは思わず息を止めた。
遠い昔、灰の道で、自分を起こしてくれた手を思い出したからだった。
助けようとするとき、人は似たように手を伸ばす。
そう理解しているのに、記憶は理屈より先に胸へ届いた。
ヘルマンが振り向いた。
「顔色が悪いですね」
「昔のことを思い出しただけです」
「よくあることですか」
「ときどき」
彼はそれ以上聞かなかった。
荷の整理が終わると、修理場の片隅に二人で腰を下ろした。
職人は修理が済んだ車軸を転がしてみせた。
輪は滑らかに回ったが、最後に一度だけ小さく跳ねた。
「まだ引っかかるな」
ヘルマンは膝をついて指先で車輪の傷を探した。
「ここが擦れる。荷を増やす前に、もう一度見てください」
「お前は慎重すぎる」
「人を乗せて帰るときもあるので」
修理場の職人は笑い、金具を外した。
エリゼーは、そのやり取りを黙って見ていた。
危険を見つけても、相手の技を取り上げない。直すのは職人であり、運ぶかどうか決めるのはヘルマン自身なのだ。
職人が修理台へ戻ると、ヘルマンはもう一度若い者の手の様子を見に行った。
その若者は水桶のそばで、赤い掌を日にかざしていた。
「大丈夫です。明日は持ち方を変えます」
「そうしてください。痛みが残るなら、明日も言ってくれ」
若者は気負いのない声で返事をした。
エリゼーは、誰かを守りたいと思うことが、必ずしも相手の代わりに動くことではないのだと感じた。
ヘルマンは水を飲み、地面に枝で曲線を一本描いた。
「この町から谷へ行く道は三つある。祈りの言葉も、その道に沿って少しずつ変わる。そう言ってしまえば簡単ですが、実際には、同じ村に住んでいても家ごとに違います」
「あなたは全部知っているのですか」
「いいえ。知っているのは通った道だけです」
エリゼーは女から聞いた言葉を思い出した。
知らないことは知らないと言う人。
「通った道を、何度も?」
「同じ道も、別の道も。商人の道案内をしたり、帰ってこない荷を捜したり」
「どこが故郷なのですか」
「この町の向こう側です。そこから離れている時間の方が長くなりました」
彼は枝を折った。
「私は土地の神官ではありません。祈りの意味を教えるつもりで話すなら、間違いが増えるでしょう。でも、誰がどんなときに祈っていたかは、少し覚えています」
エリゼーは頷いた。
一人の声が、いくつもの土地を代表するわけではない。
その当たり前のことを、彼は初めから隠さなかった。
修理場を出るとき、ヘルマンは門の外を指した。
「明後日、川向こうの市へ行く用事があります。仕事の邪魔にならなければ、途中で話を続けてもいい」
「考えてみます」
エリゼーは約束を急がなかった。
帰り道、彼女は自分の指先を見た。
修理場の外には、子どもが描いたらしい車輪の絵が壁に残っていた。
丸い輪の上に、荷を積んだ四角い箱が描かれている。
遠くまで運ぶ車というより、家の前で動かす遊びの道具に見えた。
エリゼーは幼い自分が、争いの音を避けるため、父の作った木片を転がして遊んでいた日を思い出した。
そのころは、境の向こうにも家があり、同じように子どもが遊ぶのだとは考えなかった。
思いつけなかったことは、なかったこととは違う。
壁の絵を見ていると、修理場から笑い声がした。
助けられた記憶だけに囚われず、今目の前にいる人がどう生きているかを見ようと思った。
救助者の手と似ていたのは、顔でも声でもない。
誰かが重いものを持つとき、隣で手を出すという動作だった。
その違いを、忘れないようにしたかった。
似ている仕草が、記憶を呼び戻すことがあります。
それでも、目の前の相手の人生を急いで決めることはできません。




