↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/198

第三部 異郷の声 62 知らない節回し

同じ神へ向けた祈りでも、声の置き方まで同じとは限らない。

挿絵(By みてみん)

翌日の夕方、エリゼーは仕事を終えてから宿屋の並ぶ通りへ向かった。


布を届けた女は、裏庭で荷車の車軸を拭いていた。

木桶の中の水が濁っている。


「わざわざ来たんですか」

「昨日の話が気になって。もし差し支えなければ、あなたの村ではどう祈るのか、聞いてみたくて」

女は布を絞った。


「上手に聞かせられるかしら。私、祈り手ではないんですよ」

「私も魔法は使えません」

「じゃあ、似た者どうしですね」

笑って、女は手を洗った。


宿の裏庭には、小さな石の台があった。

旅の途中で壊れた靴や道具を置く場所らしい。

女はそこに腰を下ろしたが、すぐには祈らなかった。


「何を願うか、先に決めるんです」

「決める?」


「荷車が無事に着くように、でもいい。帰ってきた人が、いつもの声で家族を呼べるように、でもいい。言葉だけ知っていても、口が先に動くと気持ちが追いつかなくて」

エリゼーは、幼いころに祈祷文を覚えた自分を思い出した。

正しく唱えられるようになることが、そのまま力へ近づくことだと信じていた。

女は手を重ね、祈りの一節を低く唱えた。

よく知る音が含まれていた。

だが母音を伸ばす場所が違い、一つの区切りのあとには、驚くほど長い沈黙があった。

終わるまで、エリゼーは口を挟まなかった。


「今のは、何かを起こすための祈りですか」

「いいえ。出立の前に祖母がしてくれた祈り。荷車を押すのは私だし、道を選ぶのも私。でも、ひとりで出る気がしなくなるんです」

女は恥ずかしそうに肩をすくめた。


「あなたの教会の言葉とは、ずいぶん違うでしょう」

「違います。でも、全部が違うわけでもない」

「そうなの?」


エリゼーは、耳に残った長い間について説明しようとした。

けれども、それをただの発音の違いだと言ってしまえば、女が待っていたものまで消してしまうように思えた。


「私たちの祈りは、途中で声が切れないことを大切にします。あなたの祈りには、待つところがあるのですね」

女は少し考えた。

裏庭へ、宿の小さな子が湯を運んできた。

女は子どもの手から桶を受け取り、火傷しなかったかを先に確かめた。


「あなたのおばあさんも、こうして祈りを教えてくれたの?」

「いいえ。私の祖母は、教えるというほど丁寧じゃなかった。忙しいときには半分しか言わなかったし、叱るときには祈りより声が大きかった」

女が笑うと、子どももつられて笑った。


「でも出立の朝だけは、ゆっくりでした。家畜に水をやり、鍵を掛け、荷を数えたあと、私の前に立ってくれました」

エリゼーは、自分の家の朝を思い出した。

争いの絶えなかった辺境でも、家を出る前に確かめることは多かった。戸締まり、残った薪、食べる人の数。

その一つ一つを誰かが覚えていることが、家だった。


「言葉を変えてはいけないと言われたことは?」

「ありません。むしろ、声に出せないほど泣いている人には、代わりに言ってくれた」


女は桶の取っ手を持ち直した。

祈りを正確に唱えることと、祈る人を置いていかないこと。

エリゼーには、その二つが初めて、違う課題として見えた。


「待っているのかもしれません。返事が来るのを、ではなくて。いなくなった人の顔が、ちゃんと浮かんでくるまで」


宿の扉が開き、主人が空いた桶を持って出てきた。

女は慌てて立ち上がり、それを受け取った。


「今の音を、書いておきたいの?」

「まだ分かりません。あなたの言葉を、私が勝手に正しい形へ直すことはしたくないのです」


「だったら、今夜は聞くだけにしてください」

「そうします」

帰り際、女は言った。


「峠の向こうの祈りをもっと知りたいなら、ヘルマンという人を捜すといい。荷運びの道筋を知っていて、いろんな村の言葉を聞いている人です。もう町に戻っているはずだから」


「ヘルマン……」


「ヘルマン・バウマン。話がうまい人じゃないけれど、知らないことは知らないと言います」

エリゼーはその名を覚えた。


宿を離れたころ、夕闇の中で鐘が鳴った。

教会の鐘と同じ音なのに、今夜は、鳴り終わったあとの静けさが少し長く感じられた。


家へ戻ると、ハインツが炉の前で野菜を刻んでいた。


「何を聞いてきた?」

「沈黙を含んだ祈りを」


「変わった答えだな」

「私もそう思う。でも、音の長さを数えるだけじゃ分からないの」

ハインツは包丁を置いた。


「明日も聞きに行く?」

「今度は、人に会いに行きたい。名前を教えてもらったの」

彼は野菜を鍋へ落とした。


「なら、先に食べよう。空腹だと、知らない人の話は長く感じるから」

エリゼーは笑い、火のそばに腰を下ろした。

異文化の祈りは、音の違いだけでなく、祈る人の生活と結びついています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。