第三部 異郷の声 62 知らない節回し
同じ神へ向けた祈りでも、声の置き方まで同じとは限らない。
翌日の夕方、エリゼーは仕事を終えてから宿屋の並ぶ通りへ向かった。
布を届けた女は、裏庭で荷車の車軸を拭いていた。
木桶の中の水が濁っている。
「わざわざ来たんですか」
「昨日の話が気になって。もし差し支えなければ、あなたの村ではどう祈るのか、聞いてみたくて」
女は布を絞った。
「上手に聞かせられるかしら。私、祈り手ではないんですよ」
「私も魔法は使えません」
「じゃあ、似た者どうしですね」
笑って、女は手を洗った。
宿の裏庭には、小さな石の台があった。
旅の途中で壊れた靴や道具を置く場所らしい。
女はそこに腰を下ろしたが、すぐには祈らなかった。
「何を願うか、先に決めるんです」
「決める?」
「荷車が無事に着くように、でもいい。帰ってきた人が、いつもの声で家族を呼べるように、でもいい。言葉だけ知っていても、口が先に動くと気持ちが追いつかなくて」
エリゼーは、幼いころに祈祷文を覚えた自分を思い出した。
正しく唱えられるようになることが、そのまま力へ近づくことだと信じていた。
女は手を重ね、祈りの一節を低く唱えた。
よく知る音が含まれていた。
だが母音を伸ばす場所が違い、一つの区切りのあとには、驚くほど長い沈黙があった。
終わるまで、エリゼーは口を挟まなかった。
「今のは、何かを起こすための祈りですか」
「いいえ。出立の前に祖母がしてくれた祈り。荷車を押すのは私だし、道を選ぶのも私。でも、ひとりで出る気がしなくなるんです」
女は恥ずかしそうに肩をすくめた。
「あなたの教会の言葉とは、ずいぶん違うでしょう」
「違います。でも、全部が違うわけでもない」
「そうなの?」
エリゼーは、耳に残った長い間について説明しようとした。
けれども、それをただの発音の違いだと言ってしまえば、女が待っていたものまで消してしまうように思えた。
「私たちの祈りは、途中で声が切れないことを大切にします。あなたの祈りには、待つところがあるのですね」
女は少し考えた。
裏庭へ、宿の小さな子が湯を運んできた。
女は子どもの手から桶を受け取り、火傷しなかったかを先に確かめた。
「あなたのおばあさんも、こうして祈りを教えてくれたの?」
「いいえ。私の祖母は、教えるというほど丁寧じゃなかった。忙しいときには半分しか言わなかったし、叱るときには祈りより声が大きかった」
女が笑うと、子どももつられて笑った。
「でも出立の朝だけは、ゆっくりでした。家畜に水をやり、鍵を掛け、荷を数えたあと、私の前に立ってくれました」
エリゼーは、自分の家の朝を思い出した。
争いの絶えなかった辺境でも、家を出る前に確かめることは多かった。戸締まり、残った薪、食べる人の数。
その一つ一つを誰かが覚えていることが、家だった。
「言葉を変えてはいけないと言われたことは?」
「ありません。むしろ、声に出せないほど泣いている人には、代わりに言ってくれた」
女は桶の取っ手を持ち直した。
祈りを正確に唱えることと、祈る人を置いていかないこと。
エリゼーには、その二つが初めて、違う課題として見えた。
「待っているのかもしれません。返事が来るのを、ではなくて。いなくなった人の顔が、ちゃんと浮かんでくるまで」
宿の扉が開き、主人が空いた桶を持って出てきた。
女は慌てて立ち上がり、それを受け取った。
「今の音を、書いておきたいの?」
「まだ分かりません。あなたの言葉を、私が勝手に正しい形へ直すことはしたくないのです」
「だったら、今夜は聞くだけにしてください」
「そうします」
帰り際、女は言った。
「峠の向こうの祈りをもっと知りたいなら、ヘルマンという人を捜すといい。荷運びの道筋を知っていて、いろんな村の言葉を聞いている人です。もう町に戻っているはずだから」
「ヘルマン……」
「ヘルマン・バウマン。話がうまい人じゃないけれど、知らないことは知らないと言います」
エリゼーはその名を覚えた。
宿を離れたころ、夕闇の中で鐘が鳴った。
教会の鐘と同じ音なのに、今夜は、鳴り終わったあとの静けさが少し長く感じられた。
家へ戻ると、ハインツが炉の前で野菜を刻んでいた。
「何を聞いてきた?」
「沈黙を含んだ祈りを」
「変わった答えだな」
「私もそう思う。でも、音の長さを数えるだけじゃ分からないの」
ハインツは包丁を置いた。
「明日も聞きに行く?」
「今度は、人に会いに行きたい。名前を教えてもらったの」
彼は野菜を鍋へ落とした。
「なら、先に食べよう。空腹だと、知らない人の話は長く感じるから」
エリゼーは笑い、火のそばに腰を下ろした。
異文化の祈りは、音の違いだけでなく、祈る人の生活と結びついています。




