第三部 異郷の声 61 境の外から
閉じた窓の外にも、人はそれぞれの用事を抱えて歩いている。
エリゼーが最初に出会うのは、答えを持った人ではなかった。
朝の鐘が鳴り終わる前に、教会の門で車輪のきしむ音がした。
エリゼーが保管室の窓を開くと、荷車を引いた女が門番と向き合っていた。
荷台には染めていない布が幾重にも積まれ、縄の間から乾いた草がのぞいていた。
女は、門の内側を指して何かを説明している。
その言葉の終わりだけが、エリゼーの知る言い回しと少し違った。
門番に呼ばれて下りていくと、女はほっとした様子で木札を差し出した。
「病人の部屋へ届ける布だって、先に言ってあるんです」
木札には受取先が書かれていた。
ただし教会ではなく、隣の救護所だった。
「ここを通れば近いと聞いたけれど、通ってよい道と、いけない道があるそうで」
「ええ。この門の向こうは保管庫にも通じます。荷を通す許可は私には出せません。でも、救護所への道ならお教えできます」
女は肩をすくめた。
エリゼーは、門番の机に置かれた厚い通行記録を見た。
この道を通った者の名は、毎日並んでいる。だが、何を守りたくて急いだのか、何を置いてきたのかは書かれていない。
「救護所の布が足りなくなったの?」
「それもあります。向こうの村では今年、織る人が減ってね。家に残る人へ仕事を分けたら、今度はこちらで手が足りなくなった」
女は荷車の側面を叩いた。
「道は一本でも、帰りに運ぶものは違うんです。空の車で戻れば、次に来る人が損をする」
「では、帰りの荷を探しているのね」
「ええ。でも何でも積めばいいわけじゃない。峠の坂では、重すぎる荷を引けば車が先に下りてしまいます」
エリゼーは車輪の金具に目を落とした。
神の力があれば、そんな坂も軽く越えられるのだろうか。
しかし女が問題にしているのは、荷の量だけではない。登る人と、下る人と、無事に帰り着く道のことだった。
「ここまで来て、紙を間違えたのかと思いました」
エリゼーは札をよく見た。
裏側に、小さな文字で別の村の名がある。
そこは、幼いころに聞かされた境の向こうの地名と、音が似ていた。
「遠くから?」
「峠を二つ。最後の村で一晩休みました。こっちの人は、雨が降ると橋を避けるでしょう。向こうでは川底を見て道を決めます」
女は自慢するでもなく言った。
その腕には、乾ききらない縄の赤い跡があった。
エリゼーが門番と相談して通行できる道筋を示していると、荷台の端がぐらついた。
二人で押さえたが、布の包みが一つ地面に落ちる。
女は泥を払って中身を確かめ、濡れていないことを確かめてから、ようやく息をついた。
「祈っておくべきだったかしら」
女が笑う。
「あなたは魔法を使えるのですか」
「いいえ。でも祈るくらいはします。荷が落ちないようにって。縄を締めるのも忘れません」
エリゼーも笑った。
荷車を起こして運ぶ間、女は故郷の話を少しだけした。
川辺の布は霧を吸うため、朝早く干しても乾かないこと。
救護所ではその布を煮てから使うので、どの染料も付けずに売ること。
そして村を離れるとき、年寄りたちが荷車へ手を伸ばして祈ること。
「魔法になるんですか」
「一度も見たことはありません。でも、みんな手を伸ばす。私が帰ってくるまで、手を離さないみたいに」
その言葉を、エリゼーはすぐに書き留めたいとは思わなかった。
女の腕の跡と、地面へ落ちた包みの重さを覚えておきたかった。
救護所の前に着くと、係の者が布を数えた。
布を運び込む小部屋には、畳まれた毛布と洗った包帯が積んであった。
救護所の若い係は、遠くから届いた荷を見て、すぐに顔を明るくした。
「この長さなら、寝台の下まで届きます。前の布は短くて、結び目が当たってしまったので」
女は自分の荷がどこで使われるかを聞いて、仕立て直せる端の長さを確かめた。
エリゼーはその話の間、口を挟まなかった。
布の寸法に詳しいのは運んできた女であり、寝台の困りごとを知っているのは救護所の人間だった。
自分がそこにいなくても話は進んだだろう。
けれども、二人が納得して頷き合うところを見られたことが、エリゼーにはうれしかった。
女は一枚ずつ確かめ、受領の印を待った。
確かな受け渡しが済んではじめて、肩の力が抜ける。
「あなたは記録を扱う人なんですね」
「どうして分かるのですか」
「受け渡しが終わるまで、ずっと待っていたから」
女は手綱を巻いた。
「うちの村じゃ、祈りを聞くだけなら紙は要らないんです。でも言葉が違うと、なかなか聞き取れないでしょう」
エリゼーは、問いかける前に女の出立の支度を待った。
相手にも、今日の仕事がある。
「また町に来ますか」
「帰りの荷がまとまれば。明日の夕方までは宿にいますよ」
女はそう言い、荷車を引いて坂を下りていった。
保管室へ戻る途中、エリゼーは門を振り返った。
世界が変わったわけではない。
ただ、窓の下を通る道が、知っている地図の外へ延びていた。
昼の作業を終えると、彼女は救護所へ布が届いたことだけを受付台帳で確かめた。
届けた女の言葉まで書く欄は、どこにもない。
それでよいのだと思う一方、あの村の祈りを自分の耳で聞いてみたい気持ちは、消えなかった。
教会の外から来た人の暮らしに触れ、エリゼーの関心は書類の先へ向かいます。




