第二部 沈黙する記録 60 まだ開かぬ窓
答えがないままでも、人は次に向かう道を選ぶことができる。
修理の終わった保管室の窓が、ようやく開いた。
長く閉めたままだったため、金具は少し固く、エリゼーは両手で押した。
外から、乾いた風が入ってくる。
雨の匂いではなく、離れた道を行く荷車の土埃と、中庭の草の匂いが混ざっていた。
窓から見える景色は、以前と変わらない。
それでも、紙の匂いだけの部屋に、外の空気が入るということが、いつもとは違って感じられた。
***
午前中、受付係が案内板を見に来た。
「昨日、申請の順番が分かったと言ってくださる方がいました」
「よかった」
「でも、許可の窓口が別だと分からず、戻って来た方もいます」
エリゼーは頭を上げた。
「では、矢印を加えた案を作りましょう。必要ならまた確認を受けて」
受付係は微笑んだ。
「一度で終わりませんね」
「人が読むものですもの」
彼女は案内板を直す相談をし、書記に伝える仕事の順番を確認した。
誰かが一人で抱え込む必要はない。
***
若い書記が、書類の束を抱えて入ってきた。
「今日は、この棚の整理を私に任せてもらえますか」
「決められた範囲なら、お願いできるわ。判断の要るものは、あとで一緒に」
「分かりました」
書記は札の順を確かめ、棚の前に小さな台車を寄せた。
書記が一人で作業を始めるのを見ながら、エリゼーは、自分がこの部屋を離れたら何も残らないと思っていた昔の気持ちを思い出した。
そんなことはなかった。
仕事は、一人の人間の手の形に合わせてできているわけではない。受け継ぐ人がいて、手続きを守る人がいて、間違えたときには訂正できるようにしてある。
もし、いつか長くここを空けることがあるなら、引き継ぎのために必要なことを、自分が書き残せばよい。
ただし、その可能性を思っただけで、今ここを離れると決めたわけではない。
若い書記が振り向いた。
「何かおかしいですか」
「いいえ。丁寧にしてくれてありがとう」
「こちらこそ、任せてもらえてうれしいです」
書記が再び棚へ向かうのを見て、エリゼーは机へ戻った。
昼前、上の事務所から届いた返書をもう一度読み返した。
確認中という言葉は、まだ変わっていない。
奇跡と災厄の記録について、何をどこまで調べてよいのかという問いにも、確かな答えはない。
だが、もう何もできないわけではなかった。
資料の来歴を正確に記し、人が申請する方法を明らかにし、見ることを許された範囲を守る。
今ここで進められる仕事は残っている。
エリゼーは帳面を閉じ、棚の前へ立った。
子どものころ、彼女は祈れば世界が変わると思っていた。
祈りの言葉を正しく覚え、いつか自分も人を助ける力を授かるのだと信じた。
その望みは叶わなかった。
けれども、彼女を助けたのは、敵と呼ばれた側から来た一人の人間だった。
その人がどこで何を学び、どんな言葉で祈っていたのか、彼女は知らない。
知らないまま、今まで生きてきた。
***
夕方、ジャックが礼拝堂から戻るところに出会った。
「最近、外の人の話を聞くことが多くなりましたね」
「来訪者のことですか」
「それもあります。保管室の中だけで完結しない仕事が増えたように見えます」
エリゼーは少し考えた。
「紙の外にも、同じ出来事を覚えている人がいるんですね」
「いますよ。言葉にしないで覚えている人も」
「それを、どう扱えばいいのでしょう」
「聞いたことをすべて事実として記録できるわけではありません。でも、聞かなければ、違いがあることにも気づけない」
ジャックはそこで言葉を切った。
「私は祈りを伝える立場ですが、すべての人が同じように祈っていると思ってはいません」
エリゼーは彼の顔を見た。
その言葉の先を尋ねたくなったが、彼は礼拝堂へ戻る時刻だった。
「また話を聞かせてください」
「ええ。今度は、もう少しゆっくり」
***
夜、ハインツと並んで家へ帰るところだった。
「今日は何か分かった?」
歩きながら彼が尋ねた。
「答えはまだ」
「でも、昨日より元気そうだ」
エリゼーは少し笑った。
「保管室の窓が開いたの」
「それはよかった」
「外の道が見えるの。ずっと同じところを通っていたのに、今日は向こうまで続いていることが気になった」
ハインツは彼女の歩調に合わせた。
「見に行きたいの?」
エリゼーはすぐには答えなかった。
道の向こうに何があるのかを確かめたいという気持ちと、ここに残しておく仕事への責任が同時にあった。
「いつか、違う場所で同じ祈りがどんなふうに聞こえるのか、知りたいと思う」
「そのときは、どうする?」
「まず、誰に仕事を預けられるか考えるわ」
ハインツが笑った。
「君らしい答えだね」
彼女も笑った。
遠くでは鐘が鳴った。
エリゼーは立ち止まらずに、その音を聞いた。
扉を開ける許しのない場所は、まだある。
その向こうの真実も、まだ知らない。
しかし、自分の足で歩いてよい道まで閉ざされているわけではなかった。
夜の風が、二人の間を通り抜けた。
エリゼーは、その冷たさを確かめるように一度深く息を吸った。
未解決の問いを抱えたまま、エリゼーは教会の外へ目を向けます。
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