第二部 沈黙する記録 59 名前を失わぬため
探している人が見つからなくても、その人を探し続けた時間まで消えてよいわけではない。
新しい案内文が、受付の横に掲示された。
決裁の印が入り、読みにくい言葉を直した正式なものだった。
エリゼーは少し離れて立ち、人がどこで足を止めるかを見ていた。
ある人は最初の一行だけ読んで受付へ進み、別の人は最後まで読み、必要な紙を先に取りに行った。
誰にとっても十分な説明ではない。
それでも、昨日までは何を尋ねればよいか分からなかった場所に、言葉が置かれた。
***
昼前、父の名を探していた若い男が、三度目の来訪をした。
今度は受付を迷わず進み、エリゼーのところへ来た。
「先日の申請が受け付けられたと聞きました」
「ええ。手続きは進んでいます。ただ、記録の確認にはまだ時間が必要です」
「分かっています」
男は小さな布包みを机に置いた。
「木札を見て、家で話したんです。母が、父の名の読み方を二つ知っていました」
父親が村では短い名で呼ばれ、別の地区ではもう少し長い名を使っていたらしい。
どちらが正式なのか、男にも分からない。
「申請に加えることはできますか」
「担当者に相談しましょう。聞き伝えということも、分けて書いておけば役に立つかもしれません」
男は頷いた。
***
担当職員は追加の申出を記録し、調べる範囲に影響するかどうかを確認すると告げた。
エリゼーは、その手続きの横で男の話を聞いた。
「どうして今になって、探そうと思ったの」
「家の道具を片づけていたら、父のものだという上着が出てきたんです」
「上着が?」
「袖を直した跡があって。母は、あの人は片腕だけ先に傷むからって笑っていました」
男は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「今まで、父のことは帰らなかった人としか思っていなかった。でも、上着を縫い直して着る人だったんですね」
エリゼーは静かに頷いた。
名簿は、誰かが上着を直した理由を教えてくれない。
だからこそ、名簿に残った字が、その人の暮らしと出会う瞬間がある。
***
男が帰る前、受付係が木札を包む布を見て言った。
「随分、大切に持っていらっしゃるんですね」
「これがなかったら、名前の一文字も分からなかったから」
「文字が消えそうなら、写しておく方法もあります」
男はエリゼーを見た。
「ここで、写してもらえるんですか」
「正式な資料として預かるのとは別だけれど、あなたが見ながら書き留めることはできます。今見える字と、聞いた名前を同じものとして書かないようにしましょう」
男は紙を受け取り、木札の形を不器用に描いた。
残っている文字は濃く、削れたところは白いままにする。母から聞いた長い名前は、少し離して書いた。
「空いたところは、そのままでいいんですね」
「今は、ね」
「いつか分かったら、そこに書けばいい」
彼は自分の紙を見つめた。
エリゼーは、分かったという日が来ると約束しなかった。
それでも男の手には、自分で写し取ったものが残った。
遠くの家へ持ち帰ったあと、その紙を誰に見せるかは、彼自身が決めることだった。
午後、エリゼーは保管室へ戻り、古い資料の所在を調べるための目録を整えた。
無理に同じ人へ結びつけないよう、似た名には別の印を付ける。
記録の出所が分かるよう、受け取った時刻や作成者も明らかなものだけ記す。
若い書記が、横から尋ねた。
「同じ名前を一つにまとめたほうが、探しやすいのでは」
「そう見えるかもしれない。でも、別人だったら二人のうち一人が消えてしまうわ」
「間違ってまとめるより、別々にしておく」
「そう。違うと分かるまではね」
書記は札を書き直した。
エリゼーは、少年の木札を思い出した。
一部しか残らなかった名前に、残りの文字を勝手に足してはいけない。
足りないことを足りないまま残すのは、怠慢ではない。
***
夕方、受付係が男の書類の控えを届けた。
「ご本人が、次の連絡先を知らせて帰りました」
「ありがとう」
「ずいぶん遠くまで歩いて来られるんですね」
「それほど探したい人がいるのね」
エリゼーは紙を所定の場所へ入れた。
そこに父の生死の答えはない。
けれども、息子が訪ねたことは確かに残る。
人を探す記録は、探される人だけのものではないのかもしれなかった。
夜、家に戻った彼女は、ハインツへ上着の話をした。個別の名前や申請内容は伏せたまま、誰かを思い出す手掛かりが物の中に残ることがあるとだけ。
「君にも、そういうものがある?」
ハインツが聞いた。
彼女は、幼い日に握られた手を思い出した。
「あるわ。でも、物ではないの」
彼はそれ以上問わず、頷いた。
エリゼーはその沈黙を、以前よりも穏やかに受け取れた。
行方不明の父の身元はまだ確定しません。
似た名前を安易に統合せず、探す側の人生と記録そのものを大切に扱います。




