第二部 沈黙する記 58 届かない祈り
同じ祈りを正しく唱えても、誰にでも同じことが起こるわけではない。
礼拝堂の外では、古い敷石の継ぎ目を修理していた。
台車が通るたび車輪が跳ね、人がつまずくこともあったため、雨の少ない日を選んで石を据え直すことになった。
エリゼーは保管室から出たところで、修繕係が道具を運ぶ姿を見かけた。
「こちらを通っても?」
「少し待ってください。いま石を持ち上げます」
係は綱を張り、通路の端へ人を誘導した。
祈りを頼めば石が浮く、と誰かが冗談を言い、別の人が笑った。
そんな魔法を扱える人がここにいるかどうか、エリゼーは知らない。
人々は冗談を言いながらも、その手で台車を支えていた。
***
その日の礼拝は、旅に出る人々の無事を願うものだった。
エリゼーは奥の椅子に座り、前にいる人の背中を見た。
帰りを待つ者は、誰かの旅のすべてを知っているわけではない。出発したあと、無事でいるかどうかを祈ることしかできない日もある。
祈り手が、静かに言葉を唱え始めた。
エリゼーはその節を知っている。
覚えたときには、誰かの身体を守る働きが起こると教えられた言葉だった。
口の中で、ゆっくりと音を確かめる。
「エゴ・ウォロ・ウト・エンテラフィアス・セクリターテム・フイク・コルポリ・プラエベアト」
音の順番を間違えなかった。
誰かに教わった昔と同じところで息を継ぎ、最後の音を落とした。
彼女の掌には、何も生じない。
光も、熱も、自分を覆う確かな変化もなかった。
それは、珍しいことではない。
珍しくないからといって、心が何も感じないわけでもなかった。
***
祈りの最後の音が消えたあとも、エリゼーは手を重ねたままでいた。
幼い頃は、祈りを口にするたび自分の掌を見つめた。変化がないことを確かめては、どこか一音が間違っているのではないかと、初めから唱え直した。
教える人は発音を直してくれた。長さも息継ぎも、丁寧に聞いてくれた。
それでも、いつしか教える人にそれ以上できることはなくなった。
エリゼーは、間違えていないと言われた日のことを思い出した。
その言葉は自分を貶めてはいない、でも急に一人になった気がした。
今は、発音の正しさで自分の値打ちを決めない。
彼女は隣に座る年配の女が、誰かの名を口にしたのを聞いた。遠くで働く家族の名かもしれない。声は小さく、言葉の全てを聞き取れなかった。
その人にも、願いがある。
祈りによって目に見える変化が起こるかどうかだけでは、その願いの重さは分からない。
手を開いたエリゼーの掌には、いつもの細い皺があった。
礼拝が終わるころ、外から短い声が聞こえた。
敷石を運ぶ作業員の一人が、足を滑らせたらしい。
エリゼーは周囲の人と一緒に戸口へ向かった。
作業員は石を落とさずに済んだが、片膝をついていた。
「立てますか」
「少し、待って」
修繕係が台車を固定し、別の人が座る場所を作った。
エリゼーは水を頼み、動かしてよいかを本人に尋ねた。
「大丈夫。驚いただけです」
その声が落ち着くまで、周りの人は急がなかった。
彼女はさきほど唱えた祈りを思い出した。
安全を願う祈りは知っている。
それでも、目の前で必要なのは、台車の車輪を留め、濡れた石を拭き、作業員の返事を聞くことだった。
***
しばらくして、ジャックが礼拝堂から出てきた。
「お怪我は?」
「ひどくないようです。無理に歩かないで、いま休んでいます」
「それはよかった」
ジャックは石を見下ろした。
「祈りのあとでこんなことがあると、人は祈りが足りなかったと考えるのでしょうか」
エリゼーは尋ねた。
「そう考える人もいるでしょう」
「私には、祈ったことが無意味だったとは思えないんです」
「ええ」
「でも、祈ったから大丈夫だとも言えない」
ジャックは彼女の言葉を待った。
「さっき、私もあの祈りを唱えました。何も起こりませんでした」
「それで、あなたはどうしました」
「水を持ってきてもらっただけです」
「だけ、ですか?」
エリゼーは自分の手を見た。
幼いころ、祈りに答えがないたび、手が空っぽであるように感じた。
いまも、その感覚は消えない。
けれども空っぽの手でも、杯を渡すことはできる。
祈りが世界へ働きかける力を持つことがあるのは、彼女も見てきた。
その力の届かない場所へ、人間が手を伸ばしてはいけない理由はない。
作業員は杯を受け取り、少しだけ飲んだ。
「さっき、みんなが一斉に手を出したのが見えました」
「驚いたでしょう」
「ええ。石より、あの手が怖かった。みんなに引っ張られたら転ぶと思って」
エリゼーは息をのんだ。
助けようとする人が大勢いても、助けられる人には、どの手が必要かを選ぶ余地がある。
「ごめんなさい。次は、何が必要か先に聞きます」
「今日は水で十分です」
作業員は笑った。
彼女も笑い、杯を受け取るまで待った。
安全を願う祈りの言葉が、ふたたび胸を通り過ぎた。
それは誰かの身を守ろうとする願いだった。
だが、願う者が相手の身体について勝手に決めてよいという意味ではない。
エリゼーは、修繕が終わるまで皆が足元を確かめ合うのを見守った。
水が要らなければ、今度はそう言ってもらおうと思った。
「この身体に安全を与える」祈祷文が表現されました。
エリゼーは正確に唱えても魔法を発現させず、祈りと実際の安全行動を分けます。




