第二部 沈黙する記録 54 話せる範囲
言葉を選ぶことは、相手を欺くことにも、相手を尊重することにもなる。
翌朝、エリゼーは保管室の入口で立ち止まった。
昨夜のハインツの質問が残っていた。
仕事の内容を話せないことと、自分の気持ちまで隠すことは違う。
頭では分かっていても、どう区切ればよいのか分からない。
棚の前で、若い書記が巻いた紐をほどいていた。
「今日の閲覧分です。許可の印は確認しました」
「ありがとう」
机に資料を置き、エリゼーは申請の目的にもう一度目を通した。
他人へ話してよいことが何かは、紙に書いてあるだけでは決められない。書かれた人が、今もどこかで暮らしているかもしれないからだ。
* * *
昼前、礼拝堂からジャック・ランスロが訪ねてきた。
先日申請した古い慰霊式文について、受付状況を確かめたいという。
「順番に処理されています。私から許可を早めることはできません」
「分かっています」
ジャックは窓に目をやった。
「あなたが、何か言いたそうな顔をしている」
「顔に出ますか」
「何年も同じ場所で顔を合わせていれば」
エリゼーは小さく息を吐いた。
「仕事を抱えて、家で黙ってしまうんです」
「話せないことがあるのは、務めのうちでしょう」
「でも、話さないことまで、務めの名を借りているのかもしれません」
ジャックは椅子に座らなかった。
「誰に、何を話せないのかを、紙に書き分けてみてはどうでしょう」
「紙に?」
「記録保管人なら、まずご自分の得意な方法で」
エリゼーは思わず笑った。
それから、その提案がよいことに気づいた。
* * *
夕方、彼女は一枚の紙を二つに折った。
左側に、仕事上の事実として守らなければならないものを列挙する。
閲覧制限のある資料の内容。申請者の個別事情。確認できていない報告の詳細。
右側には、自分のこととして話せるものを書く。
怖かったこと。迷っていること。誰かに頼りたいと思っていること。
折り目に沿って紙を開き直すと、二つの欄のあいだには折り目が細い白い線としてできていた。
彼女は何も書かなかった。
むかし、エランが夜遅く帰ってきたことがあった。何があったのか聞く前に、食事を温め、明日困らないようにと予定を組み直した。
それが愛情の表し方だと信じていた。
エランは、温かい皿を前にして、しばらく黙っていた。
「食事をどうするか、僕にも聞いてくれたらよかった」
そう言われたことだけは覚えている。
なぜ帰りが遅くなったのか。その晩、何を聞いてほしかったのか。彼女は結局、十分に知ろうとしなかった。
過去の関係を傷つけた決定的な一件は、あの夜だけで説明できない。
それでも、小さな夜は積み重なる。
エリゼーは筆先を置いた。
ハインツに真実を話すべきだという決心と、今ここで話せる言葉があるということは同じではない。
しかし「自分には話す資格がない」と決めるのも、相手の答えを先に奪うことになる。
彼女は新しい紙へ、今すぐ言えることと、まだ言葉を見つけられないことを別々に記した。誰にも見せるための紙ではない。自分が何を隠しているのかを、自分で見失わないためだった。
紙を戻そうとしたとき、手が止まった。
そこには、どうしても左右どちらへも置けないことがあった。
過去にエランを傷つけたとき、自分は相手のためだと信じていた。
ハインツはその出来事の一部を知っている。けれども、そこにある誤解を、彼女は訂正しないままだった。
そのことは、職務上の秘密ではない。
ではなぜ話さないのか。
エリゼーは、紙を裏返した。
* * *
家へ戻ると、ハインツが庭先で干した布を取り込んでいた。
「今日は風が強かった」
「ありがとう。落ちなかった?」
「一枚だけ、危うかったよ」
二人で布を畳みながら、エリゼーは言った。
「昨日の話の続きをしてもいい?」
「聞くよ」
「仕事の細かな内容は言えない。でも、私が気にしているのは、記録が間違っていたらどうしようということだけじゃないの」
「うん」
「間違っていると決めつけて、誰かを傷つけたらどうしようとも思っている」
ハインツは布の端を合わせた。
「どちらも怖いんだね」
「そう」
「私には、君の代わりに仕事を決めることはできないよ」
「決めてほしいわけじゃない」
「だったら、怖いという話を聞くことはできる」
エリゼーは頷いた。
それだけで、仕事の重みが消えるわけではない。
けれども、家へ戻っても一人で保管室にいるような気持ちは、少し薄れた。
彼女は、紙の右側に書いたことを、一つだけ口にした。
「私、自分が誰かのためにしていると思うと、その人の答えを待てなくなることがあるの」
ハインツはすぐには返事をしなかった。
「それを、知っている君となら話せる」
彼の言葉を、エリゼーは慎重に受け取った。
折った紙の裏側は、まだ白いままだった。
職務の守秘と恋人に対する沈黙を分けます。エランに関する誤解の具体的内容は、この段階では明かしません。




