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第二部 沈黙する記録 53 恋人の質問

沈黙には、守るためのものと、相手を遠ざけてしまうものがある

挿絵(By みてみん)

ハインツは、食卓に二つ目の杯を置いた。

 エリゼーは手を洗って戻り、袖口の湿り気を指で払った。


「今日は早かったね」

「書記が手伝ってくれたの。思ったより仕事が進んだわ」

「それはよかった」


 ハインツは温めた食事を卓の中央へ寄せた。

 エリゼーは椅子に座り、彼の手元を見た。


 皿を渡す順序も、湯を注ぐ加減も、二人の間でいつしか決まっていた。どちらかが命じたのではない。何度も食卓を囲むうちに、自然にそうなった。

 あまりに自然なので、失うことなど考えたくなかった。


 * * *


 食事の途中、ハインツが言った。


「このごろ、眠る前に何か考えているね」

 エリゼーは手を止めた。


「仕事のこと?」

「仕事だけじゃない気がする」


 彼は問いを続けず、皿の端に残った野菜をすくった。

 答えるまで待ってくれる。その待ち方を、彼女はよく知っていた。


「古い記録を見ているの」

「そう聞いている」


「人が助かった記録だけじゃなくて、助からなかった日や、記録を探しに来る家族のことも」

「それを読んで、つらくなった?」


「つらいというより……知らなかったことが多すぎるのね」

 言葉にしてみると、自分の驚きが幼く思えた。

 彼女は長年、保管室にいた。知らないことの方が多いなど、初めから承知しているはずだった。

 けれども数字の向こうの人々が、急に椅子へ座って話し始めたような日が続いている。


 * * *


「何か、危ないことをしているのかい」

 ハインツは静かに尋ねた。


 エリゼーは顔を上げた。


「なぜそう思うの」

「答えたくないことがあるとき、君は私の心配を先に数える」

 胸の奥が小さく痛んだ。


「規則に触れるようなことはしていないわ」

「それは、私が聞いたことへの答えではないね」

 彼女は唇を結んだ。


 たしかに、違う。


 ハインツは皿を脇へ寄せた。


「何を調べているか、全部聞きたいわけじゃない。話せない仕事があるのは分かっている。でも、君が何を怖がっているのか、少しは知りたい」

 エリゼーは卓の木目を見つめた。


 魔法を使うことのできた人が、その力を失った。

 奇跡の記録には、何かと合わないところがある。

 それだけを並べて口にすれば、まだ答えのないことへ、誰かを巻き込むかもしれない。


「私にも、何が怖いのか分からないの」

 ようやく、そう言えた。


「分からないなら、分からないと話してくれたらいい」

 ハインツは責めなかった。


 彼女はそのことに救われ、同時に、救われてしまった自分が少し恥ずかしかった。


 * * *


 食器を片づけるとき、ハインツが一枚の皿を取り落としかけた。

 エリゼーは反射的に手を伸ばしたが、彼が先に受け止めた。


「危なかった」

 ハインツは自分で笑った。


「片づけるよ。君は座っていて」

「大丈夫。手伝うわ」


「じゃあ、布をお願い」

 彼女は言われた通りに布を取り、卓の水気を拭いた。


 小さなことだった。

 けれども、昔の自分なら、皿が傾いた瞬間に彼の手から取り上げ、そのあとに、危なかったでしょうと注意していたかもしれない。


 ハインツは、落としかけた皿を落とさなかった。自分の手で扱えることまで奪われずに済んだ。


「何を考えている?」

「あなたが皿を持っていてくれてよかったって」


「妙な褒め方だね」

 彼は笑い、布を干した。


 彼の笑いが好きだ、とエリゼーは思った。

 その気持ちの一部には、ひとりになったあとの静けさを恐れる心があるのかもしれない。だからこそ、彼が不安を口にしたとき、その答えを自分が決めてしまいたくはなかった。

 仕事の話をしないために黙っているのなら、それは守秘だろう。彼と向き合うのが怖いから黙っているのなら、別の名前が必要だった。


 夜、窓を閉めに立つと、遠くの礼拝堂から歌声が聞こえた。

 エリゼーは窓枠に手を置き、耳を澄ませた。


「君は、神を疑っているの?」

 背後からハインツが尋ねた。


「疑っていないと言ったら、嘘になるかもしれない」

「信じていないの?」


「それも違う」

 ハインツは隣へ来た。


 同じ窓から外を見ても、彼には彼の景色があるはずだった。

「私は、神が何をするかを知っているつもりになっていたのかもしれない」


「それで?」

「祈っても何も起こらない人のことを、知っているはずなのに」


 彼は何も言わなかった。


 エリゼーは、ハインツの手を探すのをためらった。

 だが、彼のほうから触れてこないからといって、触れてはいけないわけではない。


「手をつないでもいい?」

「もちろん」


 彼女は彼の指を握った。


 答えのない夜に、答えを求めない温かさがあった。

 しかし、ハインツにはまだ伝えていないことがある。


 伝えないことを自分だけで決めてよいのか、彼女はその問いを避けきれなくなっていた。

インツは秘密を暴くためではなく、エリゼー自身の恐れを知ろうとします。二人の信頼を、問いと沈黙の両方から描きました。

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