第二部 沈黙する記録 52 頼ること
仕事を自分の手から離すことが、責任を放棄することとは限らない。
保管室の棚が、いつもより一段高く見えた。
エリゼーは脚立に片足を置き、上の段に収める帳面を持ち上げた。
重みが肘へかかる。無理ではないが、二冊目を持とうとしたとき、背後から声がした。
「私が受け取ります」
若い書記が手を伸ばしていた。
「これは傷んでいるから、持つ場所に気をつけて」
「分かっています。背を引っ張らない、でしょう」
エリゼーは帳面を渡した。
書記は両手で支え、棚へ滑らせるように置いた。革の背が板に当たる音はしなかった。
「上手になったわね」
「いつも見ていますから」
何気ない返事に、エリゼーは少しだけ笑った。
見られていたのは自分の仕事だったのだ。
* * *
その日の予定は、午前中に写しの確認、午後に閲覧申請の整理、夕方までに仮棚の札の付け替えだった。
加えて、朝届けられた新しい依頼が二件ある。
エリゼーはすべてを机に並べ、一つずつ片づけるつもりでいた。
けれども受付係が、案内文の再確認を求めに来たころには、同じ頁を三度読んでいた。
「少し休まれたら」
書記が言った。
「もう少しで終わるから」
「さっきもそう言っていました」
エリゼーは返事をしようとして、自分が何を終えようとしていたのか一瞬分からなくなった。
窓から入る光は、朝の薄さではなくなっている。
「そうね。まず、机を片づけましょう」
彼女は優先順位を紙に書き、書記へ差し出した。
「この帳面の保存状態を、決められた項目に従って確認してくれる? 判断の要る箇所だけ私のところへ持ってきて」
「はい」
「札の付け替えは二人で。閲覧申請の決裁は、担当の方へ届ける」
「最初からそうすればよかったですね」
責める調子ではなかった。
そのせいで、言葉はまっすぐ届いた。
* * *
昼休み、エリゼーは窓辺の椅子に座った。
若いころ、何かを頼まれるたび、自分が必要とされているようで嬉しかった。
頼まれたことを断らず、途中で誰かに引き継がず、最後まで一人で片づければ、相手は安心すると思っていた。
エランも、かつてそんな彼女に困った顔をした。
「頼んでいないところまで、決めなくていい」
その言葉を、彼女は当時、冷たい拒絶として受け取った。
今は少し違って聞こえる。
助けたい気持ちが本物でも、相手に任せる余地を残していなかったのかもしれない。
何が二人の間に決定的な隔たりを作ったのか、ひとつの言葉だけでは説明できない。
それでも、似た動きを自分の手の中に見つけることはある。
* * *
休みを終えて立ち上がると、書記が仕事を二つの山に分けていた。
「こちらは状態を確かめるだけのもの、こちらは判断がいるものです」
「どうして分けたの」
「全部を先生の前へ並べると、どれを先に見ればいいか分からなくなるから」
エリゼーは、手元の札を見直した。
一冊ずつ確認すれば、どれも大切な本だ。しかし、すべてを同じ緊急さで扱えば、修復が急がれるものを遅らせてしまう。
「この考え方は、誰に教わったの?」
「台車を押していたときに、修繕係の人が教えてくれました。濡れたものと乾いたものを混ぜないのと同じだって」
エリゼーは頷いた。
自分が教える立場だと思っていた書記も、ほかの人から学び、それを持ち帰っていた。
「いい分け方ね。ただ、この帳面は表紙が乾いていても、内側の綴じが弱い。緊急かどうか、そこだけ一緒に確かめましょう」
書記は札を一枚動かした。
彼女の手に仕事が戻ってきたのではない。二人の間に、判断の場所が生まれていた。
午後、書記が点検票を持って戻った。
「ここだけ、表紙の継ぎ目が緩んでいます。私が補修してもいいですか」
「補修の判断は、担当の修復係にお願いしましょう」
「はい。それを書いておけばいいですか」
「そう。見つけた状態を、見たままに」
書記は票を見直した。
「あなたの仕事が増えてしまいますか」
「私の仕事は増えたとしても、帳面が守られるなら、それでいいのよ」
「では、私にも守る仕事がありますね」
エリゼーは、ここで「まだ早い」と言いかけて、止めた。
「あるわ。だから、あなたが見たことを信じて報告してほしい」
書記の背筋が少し伸びた。
* * *
夕刻、保管室の扉を閉める前、二人は札を付け替えた棚を見た。
位置の変わった資料はすべて一覧に残り、次に探す人が困らないようになっている。
「一人では間に合いませんでしたね」
書記は言った。
「ええ」
「前なら、先生は間に合わせようとしたでしょう」
エリゼーは苦笑した。
「そうかもしれない」
「私は、そのほうが怖いです」
エリゼーは振り向いた。
「無理をしている人に、何かを預けるのは怖いです。失敗したら、私も言い出せなくなる」
その言葉は、予想していたものとは違った。
頼られたいと思う自分の背後で、誰かが遠慮していたのだ。
外では鐘が鳴り始めた。
エリゼーは鍵をかけ、書記へ礼を言った。
「今日、助かったわ」
「明日もいます」
書記は当たり前のように答えた。
その当たり前が、彼女には少し新しかった。
若い書記の仕事を別の人物の手柄にせず、エリゼーが頼ることを覚える一日として描きました。




