第二部 沈黙する記録 50 人の声、紙の声
書類に残った一語を確かめるため、人は何日も旅をしてくる。
紙の声と、そこに書かれた人の声は、必ずしも同じではない
朝、教会の窓口に小さな列ができた。
雨で道が悪くなり、昨日来られなかった人々が続けて訪ねてきたのだった。
エリゼーは受付係の手伝いを頼まれ、案内板の前へ出た。
訪ねてくる理由は人それぞれだった。
亡くなった親族の名を確かめたい人。
祈願の受付日を知りたい人。
遠くの村へ送った書簡の宛先を尋ねる人。
自分が預かる記録のすべてを、その場で見せられるわけではない。
エリゼーは分かる範囲と分からない範囲を、何度も説明した。
* * *
昼近く、一人の若い男が窓口に立った。
「父の名を探しています」
擦り切れた上着の裾から、小さな布包みを出した。
中には、昔の避難所で渡されたという木札が入っていた。
札には名前の初めの部分だけが残り、後ろは削れて読めなかった。
「教会の名簿なら、全部分かると聞いたんです」
「全てが残っているとは限りません。でも、調べられる手掛かりはあります」
エリゼーは札に触れず、まず男に布の上へ置いてもらった。
「あなたのお父様が、ここに来られたのでしょうか」
「そう聞いています。生きて帰ったのかどうか、家の者は話したがらなくて」
男は窓の外を見た。
「うちでは、父は戻らなかった人なんです。でも、あの頃の人は、戻った者も戻らなかった者も、同じように数えていることがあるって」
エリゼーは喉の奥に言葉がつかえるのを感じた。
帳面の区分が、家族の時間を長く止めてしまうことがある。
* * *
彼女は閲覧可能な名簿の写しを案内し、名前の読み方と地域を尋ねた。
男が差し出した木札の文字と、帳面にある名はよく似ていた。
しかし、同じ人だと断定できるほどの情報はなかった。
「これだと思います」
男が指を置いた。
「そうかもしれません」
「でも、違うかもしれない?」
「はい。似た名の方もいらっしゃいます」
男はしばらく黙り、やがて苦笑した。
「遠くから来たのに、まだ分からないんですね」
「今日ここで確かめられるのは、ここまでです」
エリゼーは椅子を差し出した。
「別の地区の記録を調べる申請もできます。手続きには時間がかかりますが、必要な書き方をお伝えします」
男は座り、ゆっくり名前を書いた。
「字が汚くて、すみません」
「読めます。とても丁寧です」
彼は少し息を吐き、木札の包みを懐へ戻した。
「帰ったら、何と言えばいいでしょう。まだ分からない、でいいのかな」
「今日確かめられたことは、書いてお渡しできます。お父様について結論は出ていませんが、次に調べる先は記せます」
エリゼーは、手続きの案内と閲覧した資料の出典を区別して紙へ書いた。
男はそれを声に出して読み、一度だけ頷いた。
ようやく自分の言葉で、家に持ち帰れるものができたのだった。
その手は、紙が破れそうなほど筆に力を込めていた。
* * *
午後、ハインツが教会の外で待っていた。
男が帰るところを、彼も見たらしい。
「ずいぶん疲れた顔だった」
「お父さんの名を探して来たの」
「見つかった?」
「似た名前はあった。でも、同じ人かどうかは分からない」
ハインツは頷いた。
「その人は、答えを持って帰れた?」
「申請書を持って帰ったわ」
「それが今できることだったんだね」
エリゼーは彼を見た。
慰めようとしただけの言葉ではないと分かった。
ハインツもまた、仕事の手順を守らなければ誰かに迷惑をかけることがあるのを知っている。
しかし、彼女はそれで満足してよいとは思えなかった。
「答えを求めて来る人は、私が想像するよりずっと長く待っているのね」
「そうだろうね」
「それを、規則があるから仕方ないだけでは済ませたくない」
「どうしたい?」
答えが出ないまま、彼女はしばらく歩いた。
「せめて、待つ人に、何を待つのかが分かるようにしたい」
ハインツはその言葉を受け取った。
* * *
夕刻、エリゼーは受付係と相談した。
申請を受け取ったあと、次にどの窓口へ進むのか分からず帰ってしまう人がいるという。
「簡単な案内を作れませんか。今の規則を書き直すのではなく、順番だけ分かるように」
受付係は少し考えた。
「責任者に確認してもらえば、できると思います」
「では、案を用意します。内容の決定は、担当の方にお願いします」
その日のうちに、短い案内の草稿ができた。
エリゼーはそこに、答えが必ず得られるとは書かなかった。
けれども、どこから尋ねればよいかは書いた。
* * *
夜、家へ戻ると、ハインツが卓上に灯りを置いていた。
「少しは進んだ?」
「ほんの少し」
エリゼーは手を洗い、椅子へ腰を下ろした。
「でも、今日は誰かの名前のことを考えていたの。奇跡や災いの理由じゃなくて」
「その人がここへ来た理由のことだね」
彼女は頷いた。
紙に書かれた言葉が、必ずしも人の声になるとは限らない。
それでも、誰かが声を届けるために紙を使うことはできる。
窓の外では夜の風が鳴っていた。
エリゼーは小さな案内の草稿を思い出した。
明日、それを誰かに読んでもらおう。
そう決めて、灯りの下でようやく肩の力を抜いた。
調査の答えではなく、閲覧を求める人のためにエリゼーができる小さな改善で区切ります。
残る謎は後へ続きます。




