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第二部 沈黙する記録 49 何を失ったか

力を失った人間は、何を失うのか。

自分も魔法を使えないエリゼーは、その問いをひとりで決めることができない。

挿絵(By みてみん)

 雨上がりの朝、カール・ライスターの執務に関わる補助職員が、教会へ別件の書類を届けに来た。

 保管室で受け取るものではなかったため、エリゼーは廊下で行き先を案内した。

 職員は荷を持ち直し、少しだけ立ち止まった。


「ここでは、書類を丁寧に扱うんですね」

「そう努めています」


「人の名前が入っているものは、なおさらですね」

 男はそれ以上言わずに去ろうとした。


 エリゼーは足を止めたまま、彼の表情を見た。

 あの件のことを知りたいという衝動が起きたが、見知った人を尋問するような真似はできない。


「正式なお問い合わせは、窓口へ出しています」

 エリゼーはそう告げるだけにした。

「ええ。私にはお答えできません」


 職員は頭を下げた。


 * * *


 昼休み、エリゼーは中庭へ出た。

 風が強く、座った椅子の脚が石の継ぎ目に引っかかった。

 席を移そうとして、二度ほど持ち上げ直す。

 片方の脚が短いのか、石が高いのか、座ってしまえば判断しづらかった。


 そのとき、今朝の職員が通りかかった。

「その椅子、別の場所なら安定しますよ」


「ありがとうございます」

 彼は椅子を少し横へ動かした。

 大げさな力は何も要らなかった。


「お疲れですか」

 エリゼーが聞くと、職員は笑うでもなく言った。


「以前と同じ仕事をしているつもりでも、周りの人の目は変わるものですね」

 彼が誰のことを言っているのか、分からない。

 エリゼーは続きを尋ねなかった。


「仕事の手順が変わることも、あるでしょう」

「ええ。それでも、働かなければ一日が終わりませんから」


 職員は礼を言って行った。


 * * *


 エリゼーは椅子に腰かけた。

 カール・ライスターが魔法を失ったという報告を、彼女は何度も読んでいる。

 しかし、魔法を失う以前の彼が誰の前でどう立ち、誰に何を求めてきたか、知ることは少ない。

 人々がその力に従っていたとして、それは信仰だったのか、命令に逆らえない立場だったからか。

 両方だったかもしれない。


 彼女自身が魔法を使えないことと、彼が使えていた力を失うことは同じ経験ではなかった。

 生まれた時から持たない者には、それを失う日の恐怖を知りようがない。


 エリゼーは、自分にもかつて、魔法を使えないと初めてはっきり思い知らされた日があったことを覚えていた。

 まわりの子どもたちの前で祈りを唱え、何も起こらなかった。失敗したのではなく、自分には起こせないのだと、少しずつ理解した。


 それまで自分のものだと信じていた未来が、一つ消えた気がした。

 けれども、あの日と今の高位聖職者の境遇を同じ秤に載せることはできない。


 彼には、その力によって動かしてきた人々がいる。

 その中には命令に従った人も、従わされた人もいるだろう。


 本人の苦痛がどれほど深いとしても、ほかの人々が受けた影響と取り替えることはできなかった。

 逆に、力を持っていた者には、持たないまま生きてきた人の歳月を知りようがないのかもしれない。


 * * *


 午後、書記が古い祭具の点検記録を持ってきた。

「これ、保管の依頼が来ています」


「祭具自体はどこに?」

「礼拝堂です。点検の控えだけ、こちらへ」


 エリゼーは紙を受け取り、壊れた留め具についての記載を見た。

 金具が欠け、古い紐で結び直したとある。


「新しいものへ取り替えれば済むと思ったんですが、元の形を残すんですね」

 書記が言った。


「使うために直すことと、どんなふうに使われてきたかを残すことは別なのよ」

 書記は少し考え、頷いた。


 エリゼーは、自分がこの紙に感じた連想を口にしなかった。

 壊れた物の記録から、人間の尊厳を説明できるわけではない。


 * * *


 夕方、ジャックが書類を受け取りに来た。

 エリゼーは祭具の点検の控えを渡し、あの職員の言葉を思い出した。


「人が魔法を使えなくなったとき、周りの人の態度も変わるのでしょうね」

 ジャックは短く息を吸った。


「変わるでしょう。よい方にも、悪い方にも」

「本人が何を感じているのか、私は知りません」


「知らないということを、そのままにしておくのも誠実さでしょう」

 エリゼーは頷いた。


 魔法を失ったことだけを理由に、カールを赦すことはできない。

 魔法を失ったことだけを理由に、カールを裁くこともできない。

 彼が出した命令への責任は別に残っている。

 彼女は二つのことを混ぜずに考えようとした。


 もし、カールの立場にある者が涙を流して助けを求めたなら、自分は水を差し出せるだろうか。


 幼い日に見知らぬ人から水を与えられた自分なら、差し出したいと願う。

 それでも、その一杯の水が命令の責任まで消してしまうとは思わない。


 エリゼーは、許すことと助けることが、いつも同じでなくてよいと初めて考えた。

 その考えを、今は誰にも語らずにいた。


 夜の教会では、いつも通り人々が祈っていた。

 その声の中に、カールの声があるかどうか、エリゼーの気持ちは広がらなかった。

カール本人の内面や魔法喪失の理由は断定しません。

力を失う苦しみと、過去の命令に対する責任を分けて扱います。

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