第二部 沈黙する記録 44 一字の重さ
一字を加えれば、出来事は変わって見える。
その字を善意から足した人と、足さないと決める人の間に対立だけがあるわけではない。
午後の写し作業が始まる前、書記は自分の机を片づけていた。
古い式文の控えと、新しい清書用紙を別の棚へ分ける。
エリゼーが通りかかると、書記は何か言いたそうな顔をした。
「どうしたの」
「昨日の写しです。一字足してしまいました」
書記は清書の途中で手を止めた紙を差し出した。
原文には「祈祷を行った」とある。新しい写しには「再祈祷を行った」と書いてあった。
ほんの短い違いだった。
「『再び』は、どこから来たの?」
「前の段に、同じ人が祈った記述があったので。二度目のことだと思ってしまって」
エリゼーは原文を見た。
前の段の祈りと、問題の行の祈りとが、同じ場所で行われたとは書かれていない。
同じ人物が祈ったのかどうかさえ、別の記録では確かめられていなかった。
「読んだ人が、二度目だと受け取るかもしれないわね」
「はい」
書記は肩を落とした。
* * *
「元の字を残して、新しい写しを作り直しましょう」
「失敗した紙は捨てますか」
「作業上の誤記として、訂正の経過を残してから廃棄の手続きをするの。原本に触れたわけではないから、全部を大ごとにしなくていい」
書記は不思議そうに顔を上げた。
「もっと叱られると思いました」
「隠される方が困るわ」
「でも、私の字で、別の事実を作りそうになった」
「だから教えてくれたのね。それが今できる一番大事なことよ」
書記の手は少し震えていた。
エリゼーは過去の自分を思い出した。
誰かのために必要だと思って用意したものが、相手には重すぎたこと。
善意は間違えないという思い込みを、長く手放せなかったこと。
* * *
昼休み、二人は新しい写しを並べて確認した。
「この『再』があると、同じ人が何度も祈って、最初は答えられなかったように読めますね」
「あるいは、何度も成功したように見えるかもしれない」
「どちらにも」
「ええ。記録が答えていないことまで、字が勝手に話してしまうの」
書記は原文へ目を戻した。
「どうして二度目だと思ったのか、分かってきました」
「聞かせて」
「昨日、礼拝堂で同じ言葉を二度唱える声を聞いたんです。だからこの古い人も、そうしたんだろうって」
エリゼーは紙から目を離した。
耳に残る今の祈りが、昔の記録の中へ入り込んだのだ。
「声をよく覚えているのね」
「覚えすぎたんでしょうか」
「いいえ。覚えたことを、別の出来事に移すときには気をつけよう、というだけよ」
書記は窓から礼拝堂の屋根を見た。
「私、正しいことを書きたかったんです」
「私もそうよ。でも、正しいと信じた気持ちだけでは、文字の裏付けにはならないの」
そう言うエリゼーも、昨夜は古い報告の行間に、説明を求める自分の願いを読みかけていた。
書記が誤ったことは、自分が誤り得ることを映していた。
「でも、同じことを二度したのかもしれないんでしょう」
「そうかもしれない。それは考えてよいこと。ただ、書いてあることとは分けないと」
エリゼーは紙を重ねた。
「私はずっと、神の働きの理由を知りたかった。だからこそ、何かを読み足したくなる気持ちがよく分かるの」
書記はしばらく黙っていた。
「エリゼーさんでも、そういうことがあるんですか」
「ええ。今でも」
* * *
午後には、保管室の棚へ戻せる帳面の一覧が届いた。
移動時の状態、保管中の変化、戻す場所が書かれている。
エリゼーは書記に、最初の一冊の状態を一緒に確かめてもらった。
古い表紙を支える紙に、細かな繊維が立っていた。
「これは傷でしょうか」
「乾いたあとの反りかもしれないわ。今日見たままを書きましょう」
書記は今度、言い足さずに記した。
書記は自分の字を眺めて、わずかに笑った。
「書かないことにも、仕事があるんですね」
「書くために、まず止まる仕事もあるのよ」
* * *
夕方、修正した写しは確認済みの束へ入り、問題の紙は決められた場所に分けられた。
書記が机を片づけるあいだ、エリゼーは書き損じの紙の隅に印を付けた。
失敗した紙がどこへ行ったか分からなくなれば、後から誰かが偶然拾って原本の忠実な写しだと思い込むかもしれない。
書記にも同じ印の意味を説明し、二人で枚数を確かめた。
「捨てるものまで記録するんですね」
「人の手が入ったものは、思いがけない所へ届くことがあるから」
彼はうなずいて封筒を閉じた。
誤りを消してなかったことにするより、なぜ新しく写したのか分かる方が、後に残る人には親切だろう。
書記は帰り支度の途中で振り返った。
「『再』という字は、よく使いますよね」
「そうね」
「ここでは、重い言葉でした」
「誰かの出来事を一つ増やしてしまうからね」
エリゼーは扉を閉めた。
一字は小さい。
だが、そこに書かれた人が生きた時間は小さくならない。
通路の明かりの下で、書記がようやく肩を伸ばした。
間違いを申告できたことが、彼の次の仕事を少し確かなものにしていた。
誤記は隠蔽とは限りません。
ただ一字が祈りの回数と意味を変えてしまう重さを、二人の仕事として描きました。




