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第二部 沈黙する記録 36 生まれた子ら

災いの年にも、子どもは生まれた。

その記録は、誰かの長い夜と、明日を迎えようとする手を残している。


挿絵(By みてみん)

壁の外で赤ん坊が泣いた。

 窓を閉じていたエリゼーにも、その声は届いた。

 教会の裏通りを、小さな子を抱いた人が急ぎ足で通っていく。

 泣く声はすぐに遠ざかり、保管室はいつもの静けさを取り戻した。


 だが、彼女は窓に手を掛けたまま、しばらく動かなかった。

 古い出生簿を開こうとしていたところだった。

 その年、災いを語る文書が書かれた土地でも、子どもは生まれていた。


 名前が付いている子。


 生まれた日だけが記され、名前の欄が空白の子。

 別の場所へ移されたとだけ添えられた子。

 一行の長さは同じでも、その先にある時間は一つずつ違う。


 エリゼーは指先を布で拭き取り、頁を開いた。


 * * *


 若い書記が、机の下から補助台を引き出した。

「出生簿は、ほかのものより薄いんですね」


「薄いから、失われたものが少ないとは言えないわ」

 書記は何かを言いかけ、やめた。


 エリゼーは自分の口調が硬くなっていたことに気づく。


「ごめんなさい。責めたのではないの」

「はい。私も、何を聞きたいのか分からないまま訊きました」

 その返事に、彼女は少し笑った。


 自分が若かった頃、疑問を口にする前に、正しい聞き方を知りたいと思った。

 そんなことを覚えている。


 * * *


 出生簿には、村ごとの欄がある。

 一つの村だけ、しばらく記録が途切れ、その後にまとめて複数の名前が記されていた。

 それを見て、書記が眉を寄せた。


「同じ日に、こんなに生まれたのでしょうか」

「同じ日に書き移されたのかもしれない。生まれた日とは別に、届け出た日があるでしょう」

「そうか。出産した人が、すぐ記録を届けられるとは限らない」

 エリゼーは頷いた。


 まして家を離れなければならなかった人々なら、なおさらだ。

 彼女は別紙に、生まれた日と届け出の日を分けて記した。

 どちらも書かれていないところには、空欄をそのまま写した。


 空欄を見ていると、何かを書き足したくなる。

 名前を知らない子に仮の名を与え、いつか探しに来た人が見つけやすいようにしたくなる。

 しかし、そのために作られた規則と手続きがある。


 自分の親切心だけで誰かの出生を決めることはできない。


 * * *


 昼に外へ出ると、裏通りに朝の親子がいた。

 赤ん坊は眠っていた。

 抱いている人は、片手で買い物籠を支えながら、もう一方でずれかけた布を直している。


 エリゼーは道を空けた。


「お手伝いしましょうか」

「ありがとう。でも、この角を曲がれば家なの」

「では、道の段差にお気をつけて」


 相手は礼を言い、歩き去った。


 エリゼーは、自分が少しほっとしたことに気づいた。

 助けるべきことを、自分が選ばなくてもよかったからだ。

 必要な助けを、相手が決められる。


 それは、エランとの暮らしの中で、遅すぎるほど遅く学んだことだった。


 * * *


 その日の午後、厨房の人が保管室に声をかけた。

「この子の名は、あとから書けるものなんですか」


 出生簿の話をどこかで聞いたらしい。

 エリゼーは書類を閉じて相手の方を向いた。


「決められた手続きを経れば、後から記載を補うこともあります。ただ、私が名前を付けるわけではないの」

「そうですか。昔の村では、子どもが丈夫になるまで呼び名だけで過ごすこともあったと聞いて」

 エリゼーは興味を覚えた。

 けれども、その話をすぐ出生簿に結びつけなかった。

 相手が聞いた習慣が、当時のこの町にもあったかどうかは分からない。


「誰からその話を?」

「うちの祖母です。祖母の祖母も、そうだったとか」

 厨房の人は笑った。


 エリゼーも笑いながら、頭の中で話の出所を確かめていた。

 記録の空白へ、昔話がぴたりと収まることは気持ちがよい。

 しかし、その気持ちのよさは、正しさの証にはならない。


 エリゼーは礼を言い、別の地域の習慣として心に留めた。


 午後、出生簿の端に挟まれていた古い小紙片が見つかった。

 そこには、名前のない子のために布を届けた者の印が残っていた。


 届けた者の名は読めるが、子の名は分からない。

 それでも、誰かがその子を包もうとしたことだけは確かだった。


 エリゼーは書記を呼び、紙片を戻す前に保存の手順を相談した。

 書記は保護紙の寸法を測り、帳面から離れない位置に新しい包みを作った。


 作業は二人で確認した。

 それぞれの署名を控えに残した。


 誰にも見つからない善意は、世の中に数えきれないほどあるのだろう。

 けれども、この小さな紙だけは、次の誰かに渡せる。


 そのことが、エリゼーには嬉しかった。


 夕刻、帰り道でまた赤ん坊の声を聞いた。

 今度は振り返らなかった。

 泣く子がいるということは、誰かが近くにいるということでもある。


 必ずしもそうとは限らない、とも思った。


 それでも今日は、そう願ってよい気がした。

出生の日と届け出の日は違います。

数字の不揃いを、急いで不可解な力の証拠にしない姿勢が大切になります

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