第二部 沈黙する記録 35 病床の名
ひとつの病名に収まらない時間がある。
寝床の数より先に、そこにいた人の名を読む章です。
その朝、保管室へ薬草の匂いが流れ込んできた。
廊下を通りかかった療養所の係が、乾燥した葉を入れた籠を運んでいたのだ。
エリゼーは鼻先に触れた苦い香りで、子どものころの家を思い出した。
母親が煎じた汁は、冷えると飲みにくくなる。
エリゼーは嫌な顔をして器を遠ざけ、母親に叱られたものだった。
あのころは、薬を飲むことと、病気が治ることが同じ意味だと思っていた。
大人になってから、そうでないことを知った。
* * *
手元にあるのは、ある年の療養所の人名録だった。
名の横には、入所した日と退出した日が並んでいる。
退出と書かれていても、家へ帰ったのか、別の場所へ移されたのか、あるいは命を失ったのか、この帳面だけでは分からない。
エリゼーはそこを一番気をつけていた。
言葉の足りないところへ、勝手に結末を置かない。
しかし以前の自分は、ずっとそのことができていただろうか。
エランの沈黙へ、自分が考えた病名や苦しみの形を当てはめ、正しい手当てだと思い込んだことがあった。
彼の声より、彼を助けようとする自分の考えの方を、信じてしまった。
その記憶は、いまも時おり手元を止める。
* * *
人名録には、同じ名が二度出てくる箇所があった。
同じ人物が再び病床へ戻ったのか。
それとも、同じ名の別人なのか。
写しを作った書記は、何かの記号を小さく付けていた。
エリゼーは裏の凡例を確かめた。
記号は、本人確認が済んでいないことを表している。
二つを一つの人生にまとめることも、一人を二人として数えることも、ここではまだ許されない。
書記が台を片づけながら訊いた。
「一人増えるのと、一人減るのとでは、どちらの間違いが重いんでしょう」
エリゼーは答えに迷った。
「どちらも、その人にとっては重いと思う」
「でも、数は一つ違うだけです」
「名前を一つ書くというのは、誰かがそこに居た事を残すことだから」
書記は、人名録を見つめた。
「その人が今もいるかどうか分からなくても?」
「分からないことも残しておくのよ」
以前より、その言葉を口にするのが少し難しくなっていた。
* * *
昼前、療養所の係が古い写しについて尋ねに来た。
以前に作られた名簿の写しでは、一人の名に小さな傷がかかり、読みづらくなっているという。
「もう一度、原本を見せてもらえますか」
エリゼーは来訪の目的を確認し、閲覧できる範囲の写しを示した。
「今、原本を急いで開くと傷みが進みます。こちらの別の写しもありますが、確認してみますか」
係は頷き、椅子を借りて読み比べた。
やがて、一つの名前を指さす。
「これは、私が今関わっている方の、母親かもしれません」
「そうかもしれないですね」
「でも、確かめられない」
「ええ。だから、こちらへはまだ書き加えられません」
係はがっかりした様子を見せたが、少しして言った。
「それでも、別の写しが残っていてよかった」
エリゼーはその言葉を受け止めた。
誰かにすぐ答えを渡せない日でも、そこへ辿る道を残すことはできる。
係が帰ったあと、彼女は二種類の写しの保存場所を別紙に記し、次の担当者にも分かるようにした。
昼休み、エリゼーは療養所の前を通った。
入口に座った老人が、膝の上で毛布の端を捻っている。
近くにいた係が、水を汲んで戻ってきた。
「寒いですか」
老人は首を振った。
「待っているんだよ」
「どなたを」
「忘れたくない人を」
係はそれ以上聞かず、湯の器を手渡した。
エリゼーは通り過ぎようとして、立ち止まった。
老人の名前は知らない。
人名録の中の誰かでもないかもしれない。
それでも、言葉を失わず待ち続ける人がいるという事実だけで、紙に書けるものの少なさを思い知らされた。
先ほどの療養所の係が彼女を見つけて、軽く会釈した。
エリゼーも頭を下げて、その場を離れた。
* * *
夕方、彼女は人名録を閉じ、保存用の布で包んだ。
同じ名の記載について、未確認のままであると明記した。
その判断は、すぐに誰かを救いはしない。
病床の老人の冷えた指を温めることもできない。
けれども、今日ここで一人分の名前を消してしまえば、後の誰かがその人を探す道を失う。
彼女が守れるのは、まずその道だった。
窓の向こうで夕日の色が薄れていった。
エリゼーは戸を閉める前に、もう一度名簿の所在を確かめた。
会ったことのない人々の名を、暗い棚へ預ける。
自分に魔法はない。
だから何もできないという考えが、今日だけは少し違って感じられた。
出来ることは少ない。
だが、少ないことと、無いことは同じではない。
彼女は灯りを落とし、鍵を掛けた。
人名録には、命の結末を断定できない記載もあります。
エリゼーは曖昧さを消さずに残す仕事を選びました。




