↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/200

第二部 沈黙する記録 35 病床の名

ひとつの病名に収まらない時間がある。

寝床の数より先に、そこにいた人の名を読む章です。


挿絵(By みてみん)

その朝、保管室へ薬草の匂いが流れ込んできた。


 廊下を通りかかった療養所の係が、乾燥した葉を入れた籠を運んでいたのだ。

 エリゼーは鼻先に触れた苦い香りで、子どものころの家を思い出した。


 母親が煎じた汁は、冷えると飲みにくくなる。

 エリゼーは嫌な顔をして器を遠ざけ、母親に叱られたものだった。

 あのころは、薬を飲むことと、病気が治ることが同じ意味だと思っていた。

 大人になってから、そうでないことを知った。


 * * *


 手元にあるのは、ある年の療養所の人名録だった。

 名の横には、入所した日と退出した日が並んでいる。

 退出と書かれていても、家へ帰ったのか、別の場所へ移されたのか、あるいは命を失ったのか、この帳面だけでは分からない。


 エリゼーはそこを一番気をつけていた。

 言葉の足りないところへ、勝手に結末を置かない。


 しかし以前の自分は、ずっとそのことができていただろうか。

 エランの沈黙へ、自分が考えた病名や苦しみの形を当てはめ、正しい手当てだと思い込んだことがあった。

 彼の声より、彼を助けようとする自分の考えの方を、信じてしまった。

 その記憶は、いまも時おり手元を止める。


 * * *


 人名録には、同じ名が二度出てくる箇所があった。

 同じ人物が再び病床へ戻ったのか。

 それとも、同じ名の別人なのか。


 写しを作った書記は、何かの記号を小さく付けていた。

 エリゼーは裏の凡例を確かめた。

 記号は、本人確認が済んでいないことを表している。

 二つを一つの人生にまとめることも、一人を二人として数えることも、ここではまだ許されない。


 書記が台を片づけながら訊いた。


「一人増えるのと、一人減るのとでは、どちらの間違いが重いんでしょう」


 エリゼーは答えに迷った。


「どちらも、その人にとっては重いと思う」

「でも、数は一つ違うだけです」


「名前を一つ書くというのは、誰かがそこに居た事を残すことだから」


 書記は、人名録を見つめた。


「その人が今もいるかどうか分からなくても?」

「分からないことも残しておくのよ」


 以前より、その言葉を口にするのが少し難しくなっていた。


 * * *


 昼前、療養所の係が古い写しについて尋ねに来た。

 以前に作られた名簿の写しでは、一人の名に小さな傷がかかり、読みづらくなっているという。


「もう一度、原本を見せてもらえますか」

 エリゼーは来訪の目的を確認し、閲覧できる範囲の写しを示した。


「今、原本を急いで開くと傷みが進みます。こちらの別の写しもありますが、確認してみますか」

 係は頷き、椅子を借りて読み比べた。

 やがて、一つの名前を指さす。


「これは、私が今関わっている方の、母親かもしれません」

「そうかもしれないですね」

「でも、確かめられない」


「ええ。だから、こちらへはまだ書き加えられません」

 係はがっかりした様子を見せたが、少しして言った。


「それでも、別の写しが残っていてよかった」

 エリゼーはその言葉を受け止めた。


 誰かにすぐ答えを渡せない日でも、そこへ辿る道を残すことはできる。

 係が帰ったあと、彼女は二種類の写しの保存場所を別紙に記し、次の担当者にも分かるようにした。


 昼休み、エリゼーは療養所の前を通った。

 入口に座った老人が、膝の上で毛布の端を捻っている。

 近くにいた係が、水を汲んで戻ってきた。


「寒いですか」

 老人は首を振った。


「待っているんだよ」

「どなたを」


「忘れたくない人を」

 係はそれ以上聞かず、湯の器を手渡した。


 エリゼーは通り過ぎようとして、立ち止まった。

 老人の名前は知らない。

 人名録の中の誰かでもないかもしれない。

 それでも、言葉を失わず待ち続ける人がいるという事実だけで、紙に書けるものの少なさを思い知らされた。


 先ほどの療養所の係が彼女を見つけて、軽く会釈した。

 エリゼーも頭を下げて、その場を離れた。


 * * *


 夕方、彼女は人名録を閉じ、保存用の布で包んだ。

 同じ名の記載について、未確認のままであると明記した。

 その判断は、すぐに誰かを救いはしない。

 病床の老人の冷えた指を温めることもできない。

 けれども、今日ここで一人分の名前を消してしまえば、後の誰かがその人を探す道を失う。


 彼女が守れるのは、まずその道だった。


 窓の向こうで夕日の色が薄れていった。

 エリゼーは戸を閉める前に、もう一度名簿の所在を確かめた。

 会ったことのない人々の名を、暗い棚へ預ける。


 自分に魔法はない。

 だから何もできないという考えが、今日だけは少し違って感じられた。


 出来ることは少ない。

 だが、少ないことと、無いことは同じではない。


 彼女は灯りを落とし、鍵を掛けた。

人名録には、命の結末を断定できない記載もあります。

エリゼーは曖昧さを消さずに残す仕事を選びました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。