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第一部 灰の記憶 29 封じられない疑問

疑問を抱くことは、証拠を持つことではありません。

それでも、疑問を抱いた人には守るべき事があります。


挿絵(By みてみん)

翌朝、エリゼーはいつもより早く保管室へ入った。

夜の冷えが石の床に残っている。

窓の近くに置かれた木箱を通り過ぎ、奥の棚まで歩いた。


そこには、かつての災厄について記した資料と、暮らしの記録を扱う区画があった。


彼女は棚の札を読み、手を伸ばしかけて止めた。

いま目の前にある仕事は、カール・ライスターについて届いた報告の保管と、記載の照会だった。

以前から気になっている記録との関連を、誰かに証明したいという気持ちがある。


けれども、関連があると思い込んで読み始めれば、別の説明を見失うかもしれない。

彼女は棚に触れず、机へ戻った。


* * *


若い書記が書類を運んできた。

朝の光で、書記の袖には乾いた埃が輝いて見えた。


「棚の奥へ落ちていた札がありました」


差し出された札には、字が薄くなった番号が書かれている。

エリゼーはそれを見て、すぐ元の場所へ戻そうとはしなかった。

どの包みに付いていたのか、確かめる方法が必要だった。


「拾った場所を教えてくれる?」


二人で棚へ行き、箱の隙間と床の端を確かめた。

書記が指したのは、思いがけず離れた位置だった。

落ちたあとに誰かが踏んだのか、風に飛ばされたのか。


分からなかった。


エリゼーは発見した場所を記録し、札を別に保護した。

たった一枚の札でも、誤った推測で元の箱へ結びつければ、その誤りは次の人へ受け継がれる。


それは、今日の報告の時刻の扱いと同じだった。


* * *


「照会の返事は、まだでしょうか」

「まだよ」


「届かなかったことも、書きますか」

「期限になっていないなら、返事がないとは書けないわ」

書記は不思議そうにした。


「でも、今は来ていません」

「そうね。『今は来ていない』なら書ける」

彼女はそう答えた。


書記がうなずき、札へ今日の日付を記した。

小さな違いだった。


けれども、今日来なかったものを、もう来ないものと決めることはできない。

エリゼーは自分にも同じことを言い聞かせた。


* * *


書記が戻ったあと、エリゼーは自分の覚え書きの余白に、確認済みの事項と未確認の事項を分けて記した。


「報告が届いた」は確認済み。

「記載された時刻が正確」は未確認。

「喪失の原因が攻撃命令にある」は、まだ根拠のない推測。


文字にすると、三つの間には思った以上の距離があった。

彼女は最後の一行を黒く塗りつぶしたくなった。

そんな推測を抱いたことを記録すること自体が、危うく感じられた。

しかし、推測を推測として書いておけば、後から読み直すこともできる。


消さず、文の前に小さく「私見」と記した。

公式記録とは別に、自分の手元へ置くための紙だった。


昼には、何人かの教会関係者が保管室の前を通り過ぎた。

普段なら交わす挨拶が、いつもより短かった。

何かが起きているのかもしれない。

ただ忙しいだけかもしれない。


彼女は、そこにも理由を付けないことにした。

そうしようと決めるほど、心の中では想像が増えていく。


もし書類が回収されたら。

もし閲覧の範囲が変わったら。

もし昨日まで存在した頁が、明日には探せなくなったら。


彼女が怖れているのは、起きたことではなかった。

まだ起きていないことだった。


自分の恐れを事実として扱うのは、人の記録を守る仕事に反する。

そう分かっていても、怖れが消えるわけではない。


* * *


午後の仕事の途中、書記が保護した札を取り出した。


「これ、どうなったら戻していいんですか」

「どの包みから落ちたか、確かに分かったときね」


「分からなかったら?」

「落ちていた札として残すしかないわ」

書記は残念そうだった。


「それでは役に立ちません」

「いつか、箱の方に失われた札の跡を見つけるかもしれない」


「見つからなければ?」

「見つからなかったということも、誰かに伝えられる」

書記はゆっくりと札を包み直した。


エリゼーはその手つきを見守った。

未来の誰かを信じるという行為には、今すぐ答えを出さないという勇気も含まれるのだと思った。


夕刻、彼女は教会の中庭へ出た。

薄い日差しが石壁に残り、足元には枯れ葉が集まっていた。

幼い頃、灰の積もる道で聞いた声がふいに戻る。


「助けられる手があるなら、使う」


その言葉を思い出すたび、すぐ動かなければならないような気持ちになる。

だが記録の前では、急いで動くことが、かえって誰かの名を失わせることもある。


守ることと、明かすこと。

どちらも同じ手でできるとは限らない。


「難しい顔をしている」


振り返ると、ハインツが立っていた。

会う約束をしていたのだ。


エリゼーは自分が時刻を忘れていたことに気づいた。


「ごめんなさい」

「何かあった?」


「仕事のことを、考えていたの」

彼は、彼女の顔を見た。


「話せること?」


エリゼーは少し考えた。


「まだ、話せないことが多いわ」

「じゃあ、話せることだけでいい」

彼女は中庭の枯れ葉を見た。


「違う書類を見て、同じことだと思い込みそうになるの」

「思い込むのが怖い?」


「ええ。思い込まないまま、何もしないのはもっと怖い」


ハインツは答えを急がなかった。


「君が何をするかは、君が決めることだね」

エリゼーはうなずいた。


彼に秘密を明かさなかったことと、彼の言葉が助けになったことは、別々の真実だった。

そのことに、少し痛みを感じた。


* * *


夜、彼女は照会のために必要な項目だけを書き直した。

確認したいのは、最初に異変を見た者の証言がどこにあるか。

命令と祈りの時刻が、どの書類に基づいて記されたか。

原因の説明を求める文は、いったん置いた。


正確な出来事の順序が分かるまで、問いを大きくしすぎないためだった。

それでも彼女の中で、問いが小さくなったわけではない。


むしろ、答えを急がずに持ち続ける覚悟が、少しずつ形になっていた。

教会側の不正や記録の改竄は、この章でも事実として扱っていません。

主人公が感じる恐れと、確認された事実を区別しています。

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