第一部 灰の記憶 25 言えなかったこと
人を信頼していても、すべてを話せるとは限らない。正さなかった言葉が、二人の間に残り始めます。
ハインツと二人で過ごす時間が増えても、エリゼーはエランの話を多くしなかった。
避けていたわけではない、と自分では思っていた。
ただ、どこから話せばよいのか分からなかった。
二人で笑った日々から始めれば、別々に暮らすようになったことへ、どうつなげればよいのか。
最後の沈黙から始めれば、それ以前にあった優しさを裏切るような気がした。
だから尋ねられると、できるだけ短い言葉で答えた。
「長い時間、一緒にいたの」
「そうだね」
ハインツはそれ以上聞かなかった。
* * *
ある日、二人は市場の帰りに小さな橋を渡った。
橋の欄干には雨上がりの水が残っていて、エリゼーは触れないよう歩いた。
ハインツが尋ねた。
「誰かに、してほしかったことがあったんじゃない?」
「誰に?」
「君自身に」
意外な問いだった。
エリゼーは答えを探した。
許してほしかったのか。
責めてほしかったのか。
何もなかったように暮らしたかったのか。
どれも、どこか違った。
「分からない」
口にすると、自分がひどく幼く思えた。
ハインツはうなずいた。
「分からないこともあるよね」
橋の下で流れが小さくぶつかり合っていた。
* * *
エリゼーはある日、ハインツに一枚の古い買い物の覚え書きを見せようとして、途中でやめた。
かつて二人で暮らしたころの紙だった。
そこには食べ物と薪の名が並び、余白にエランの字で「窓を開けること」と書かれていた。
何のためだったのか、彼女にもはっきりしない。
ただ、指先でその文字をなぞると、冷たい窓辺に座る彼の背中を思い出した。
ハインツは机の向こうで、彼女が何かを言うのを待っていた。
「ごめんなさい。別の話をしてもいい?」
彼は「もちろん」と答えた。
それが優しさであると分かるからこそ、エリゼーは一度先送りした言葉を、次に言うことがますます難しくなる気がした。
別の日、ハインツはエランのことを、彼なりに理解したつもりで言葉にした。
その説明の中には、エリゼーが違うと思う部分があった。
ハインツが決めつけているわけではないと分かった。
彼女の少ない言葉から、できる限り理解しようとしたのだろう。
「そうではなくて」
言いかけた。
ハインツがこちらを見た。
その目には、続きを聞く用意があった。
けれども、もし訂正するなら、なぜ今まで言わなかったのかも話さなければならない。
自分がいちばん話したくない部分を、避けて通れない。
「ごめんなさい。うまく言えないわ」
ハインツはしばらく黙ってから答えた。
「いいよ。今でなくても」
その寛容さに、彼女は助けられた。
帰り際、ハインツが戸口で立ち止まった。
「話さないと決めているのなら、それも君の選択だと思う」
エリゼーは顔を上げた。
「ただ、私が知らないことについて、私自身が勝手に納得しているなら、いつか教えてほしい」
彼女は、その願いを軽く扱えないと思った。
知るかどうかを決めるのも、話す側だけではない。
それでも言葉が出なかった。
「ええ」
約束のように答えてしまった。
言うべきことを隠している自分と、誤解されている彼との間に、まだ同じ時間が流れている。
その時間を使って、何も変えないこともできてしまう。
彼が去ったあと、エリゼーは手のひらに爪の跡がついているのに気づいた。
どんな祈りよりも正確に、言葉を選べればよいのにと思った。
* * *
そして、その寛容さへ甘えた。
違う理解のままにしておいてよいとは、彼は言っていない。
ただ待つと決めてくれただけだった。
* * *
後日、エランに関わる事務的な知らせが届いた。
そこに書かれているのは、届けられた用件と必要な手続きだけだった。
ハインツの気持ちは一行も書かれていない。
エリゼーは何度も読み返した。
自分が何をしてよいのか、その知らせだけでは分からない。
ハインツには、知らせが届いたことを伝えた。
知らせの紙には、エランが今どこで何を思っているかなど書かれていなかった。
必要な用件だけを読めば、返答すべき相手と期限は分かる。
それでも彼女は文末の空白に目を留めた。
昔なら、そこに彼自身の字が添えられていたかもしれない。
「見てもいい?」
ハインツに尋ねられ、彼女は事務的な部分だけを示した。
彼は目を通し、すぐに紙を返した。
「私が思うことを言う前に、君が何を感じたか聞きたい」
エリゼーは答えられなかった。
その沈黙を彼は責めず、二人でしばらく机を見つめていた。
彼は静かに聞き、まず彼女自身がどうしたいのか尋ねた。
エリゼーは、嬉しいとも悲しいとも答えられなかった。
相手がどこかで日々を暮らしているという事実は、安心にもなった。
それでも、そこに自分の知らない日々が積み重なっていることが、痛かった。
「その気持ちは、二つ同じところに一緒にあってもいいんじゃないかな」
ハインツが言った。
エリゼーは、うなずいた。
だが、彼が誤解している事柄については、その日も訂正しなかった。
その沈黙に、自分では理由を付けられた。
今はまだ、相手を傷つけたくない。
話すなら、落ち着いたときに。
もっと正確な言葉が見つかったときに。
どの理由にも、少しずつ本当が含まれていた。
しかし、本当の理由が幾つも重なると、嘘をついていないという安心に似たものが生まれる。
エリゼーは、その安心を怖いと思った。
仕事では、間違った読みを見つければ訂正の跡を残す。
愛する人の前では、訂正すること自体が怖くなる。
その夜、彼女は窓を開けた。
風が紙を鳴らしたので、すぐ閉めようとした。
けれども、そこで手を止めた。
昔、窓を開けて外の音を聞くのが好きだった人がいる。
今、家の外で聞こえるのは、見知らぬ誰かが家路を急ぐ足音だった。
エランは遠い土地で、どんな夜を過ごしているのだろう。
それを知る権利が自分に残っているのかも、分からなかった。
彼女は手紙を畳んだ。
無意識に紙の端を几帳面に揃える手は、いつも通りだった。
ハインツにはまだ誤解があります。その具体的な内容や、エランとの過去の決定的な判断は、ここでは明かしていません。




