第一部 灰の記憶 26 今を共にする
昔の悔いが消えなくても、人は今日の幸福を知ることができます。
エリゼーとハインツが選んでいる現在を描きます。
朝の通りには、パンの匂いが流れていた。
窯のある店の前で人が足を止め、焼き上がりを待っている。
エリゼーはいつもの道を少し外れ、店の窓をのぞいた。
頼まれたわけではない。
ただ、ハインツが昨日、あの店の硬いパンが好きだと言っていたのを覚えていた。
手を伸ばしかけて、やめた。
食べたいと言ったのではなく、好きだと言ったのだった。
そんなことまで考えている自分に、少し笑った。
それでも一つ買った。
会ったら、欲しいか尋ねればよい。
* * *
昼過ぎ、ハインツは約束した場所へ来た。
彼には彼の用事があり、エリゼーには保管室での仕事があった。
会える日は会い、会えない日は次の機会を決める。
いつも一緒にいないから不安なのではなく、別々の時間があるまま会えることが嬉しかった。
「これ、好きだって言っていたでしょう」
包みを差し出すと、ハインツは笑った。
「覚えていたんだ」
「いらなかった?」
「欲しかったよ。今朝、買うか迷ったんだ」
彼は包みを受け取り、すぐ開けなかった。
「今、食べようか」
「あとでもいいわ」
「じゃあ、君が決めて」
「私が?」
「君がくれたんだから」
エリゼーは少し考えた。
「歩きながら半分ずつ食べましょう」
彼はうなずいた。
パンは思ったより硬かった。
二人で笑い、近くの水場で一口ずつ水を飲んだ。
幸せという言葉を使うには、あまりにも小さな出来事かもしれない。
けれども、彼女はその小ささを気に入っていた。
* * *
同じ日の午後、街角の店で二人は布の留め具を選んだ。
ハインツの外套の留め具が緩んでいたからだ。
エリゼーは丈夫そうなものを指差した。
「これなら長持ちするわ」
「確かに丈夫そうだね。でも少し重いかな」
彼は隣の、小ぶりな品を掌に載せた。
以前の彼女なら、重くても丈夫な方を選ぶべきだと説明を始めただろう。
今日は小さな留め具を眺め、聞いてみた。
「そちらの何が気に入ったの?」
「外套につけたとき、動きやすそうだ」
「そうね。それは着る人にしか分からないわ」
ハインツが笑ったので、彼女も笑った。
相手の答えを聞くことは、何もせず待つこととは違うのだと思った。
ハインツはエリゼーの信念の強さを好いていた。
間違いと思うことを見過ごせないところも、人の名前を粗末に扱えないところも。
同時に、ときどき心配そうな目をした。
「君が正しいと思うときほど、誰かの声を聞かなくなることがある」
以前、そう言われたことがあった。
エリゼーには、何か引っかかるところがあった。
自分は人の声を、話を聞く仕事をしていると思っていたからだ。
けれども彼は、仕事での丁寧さを責めているわけではなかった。
親しい人間ほど、知っているつもりになる。
そのことを言っていたのだ。
今、二人が歩く道で、エリゼーはふいに立ち止まった。
「私、最近また仕事の話ばかりしている?」
ハインツは考える顔をした。
「今日は、まだパンの話だけだよ」
彼女は笑った。
「じゃあ、あなたの話を聞かせて」
「何から?」
「今日、起きたことから」
彼はしばらく言葉を探し、自分が見た街路の小さな出来事を話し始めた。
どこにでもある話だった。
エリゼーは、その言葉を途中でまとめずに聞いた。
* * *
別の晩には二人で食事を作ることもあった。
どちらが包丁を持ち、どちらが火を見るか、その都度話し合う。
「今日は私が野菜を切るよ」
「じゃあ、私は鍋を見ているわ」
エリゼーが煮込みすぎたと思ったとき、ハインツは匙で一口すくった。
「もう少し塩があれば、これで十分」
「薄かった?」
「私にはね。君にはどう?」
彼女も味を確かめた。
二人の答えは少し違った。
それが喧嘩になるわけではないことが、まだ新鮮だった。
小皿に塩を取り分け、それぞれ自分の器へ加えた。
ささいなことでも、意見の違いを違いのまま置いておける時間は、彼女には大切だった。
夕方、二人は教会の外壁に沿って歩いた。
鐘が鳴り、人々が足をゆるめる。
ハインツは祈りの言葉を声にしなかった。
エリゼーも、何かを起こそうとはしなかった。
風が冷たくなったので、二人はそれぞれ襟を寄せた。
「明日も会える?」
「仕事が終わる時刻が分かったら知らせるわ」
「分かった」
答えはそれだけだった。
相手の一日を自分のものにしなくても、二人の間に確かなものがある。
ある休日、ハインツは遠くまで歩きたいと言い、エリゼーは保管室での用事を終えてからなら行けると答えた。
彼は先に出発し、彼女はあとから合流した。
道の途中で見たものを話すと、同じ場所を通っても、二人の目に映るものが違うことが分かった。
ハインツは石壁についた古い傷を気にかけ、エリゼーはその下に置かれた水桶の位置を覚えていた。
「君は、本当に人の暮らしの跡を見つけるのが上手いね」
そう言われて嬉しかった。
しかし彼女は言い返した。
「あなたが見た壁の傷にも、誰かの暮らしがあるのかもしれないわ」
二人は石壁へ戻り、傷の形を眺めた。
いつのものかは分からない。
ただ、別々の目があるから、二人で歩くことが少し豊かになる。
そのことを、二人とも言葉にしないまま感じていた。
* * *
そのことが、エリゼーにはまだ不思議だった。
ときにはエランの横顔が浮かぶ。
彼と過ごした時間がなくなるわけではない。
そのことをハインツへの裏切りだと思ってしまう夜もあった。
だが、思い出が残っていることと、今日ここにいる人を愛することは、同じ心の中に存在できた。
ハインツに言えないことがまだある。
その事実から、目をそらすつもりはなかった。
いつか話そうという約束を、自分自身へ重ねながら、その「いつか」を決めないことの危うさも感じていた。
二人は角まで来て、そこで別れた。
背を向けて歩き出してから、エリゼーは一度だけ振り返った。
ハインツも振り返っていた。
手を振ると、向こうも手を上げた。
約束のない奇跡ではなく、明日また会うための、ごく普通の別れだった。
現在の恋人との愛情を、過去の苦しみを忘れた結果としては描きません。
相手に選ぶ余地を残すことが、二人の関係の大切な部分です。




