第六部「異なる岸の記録」 224 隣の扉を叩く
昨夜は、廊下で偶然会った。
今日は自分から、隣の扉へ手を伸ばす。
ジュリアは、用件になるほどではない話を抱えている。
ジュリアは自分の部屋の前を通り過ぎ、ヘルマンの扉を叩いた。
返事があってから、声をかける。
「少し、よろしいですか」
扉が開いた。
ヘルマンは彼女を見ると、少し驚いた顔をした。
「どうぞ。何かあった?」
「何かあったわけではないのですが」
そう答えると、急に用事を作らなければならない気がした。
ヘルマンは、椅子を空けた。
自分は寝台の端へ座る。
ジュリアは椅子へ腰を下ろした。
同じくらいの広さの部屋なのに、棚にある彼の荷だけで、違う場所に見えた。
小卓には何も広げられていない。
彼女は、見る必要のないものまで目に入りそうで、彼の顔へ視線を戻した。
「昨夜、話せてよかったと思って」
ヘルマンが頷いた。
「僕も。夜食があると聞いておいてよかった」
ジュリアは少し笑った。
「食べ物のことだけではありません」
言ってから、頬が熱くなった。
それでは何のことなのかと問われたら、うまく答えられるだろうか。
ヘルマンは少し表情を変えた。
「うん。そうだね」
返事が静かだったので、彼女は安心した。
同時に、彼がどこまで分かっているのか気になった。
「私は、考えてから話そうとすると、遅くなるんです」
ジュリアは言った。
「食堂でも、言い直したくなることがありました」
「煮林檎のこと?」
「それもです」
ヘルマンは笑った。
「好みが違うと言われただけだと思ったよ」
ジュリアは手を膝へ置いた。
自分が夜まで覚えていた返事を、彼はそんなふうに受け取っていた。
安心してよいはずなのに、一人で考え続けていたことが少し寂しかった。
「僕は、話すのが早すぎることがある」
ヘルマンが続けた。
「黙っていると、相手が困っている気がして。何か言わないといけないと思うんだ」
ジュリアは彼を見た。
「楽しそうに話しているときも?」
「楽しいことも多いよ。でも、いつも同じではない」
彼は窓へ目を向けた。
「道を案内していると、黙って歩く時間もある。それでも、自分が道を知っている間は、役目があると分かるから」
ジュリアはその言葉をゆっくり受け取った。
船へ来てからの彼には、道を示す用事がない。
昨日、仕事をする船員を見ていた理由が、少し分かった気がした。
全部分かったと答えたくはなかった。
「ここでも、話してくださると嬉しいです」
彼女は言った。
「でも、黙っていても、困っているとは限りませんよね」
ヘルマンは頷いた。
「きみが考えているだけで、何もないときもある」
「はい」
「そのときは、待ってみるさ」
彼女は顔を上げた。
待つと言われると、早く答えなければと思うこともある。
しかし今は、すぐに用件を作らなくてもここにいられるように感じた。
船が揺れ、椅子に置いた彼女の足へ少し力が入った。
ヘルマンは手を伸ばしかけ、止めた。
「大丈夫?」
「ええ」
彼は頷き、手を自分の膝へ戻した。
ジュリアは、その手を少し見ていた。
昨夜、干し林檎を取ろうとして触れそうになった指だった。
話が途切れた。
ヘルマンは新しい話題を急いで出さなかった。
ジュリアは沈黙の中で、窓の光を見た。
「この部屋、あなたがいると、私の部屋と違いますね」
思ったことがそのまま出た。
ヘルマンは周囲を見回し、笑った。
「荷の置き方が悪い?」
「そういう意味ではありません」
彼女も笑った。
言い直さなくても、彼には少し伝わった気がした。
昼食の頃合いを知らせる声が廊下に響いた。
ジュリアは椅子から立ち上がった。
扉を開けると、さっきまで近かった彼が、また部屋の奥へ遠く見えた。
「また、話してもいいですか」
「もちろん」
ヘルマンの返事を聞いて、ジュリアは頷いた。
自分の部屋へ戻る足取りは、来るときより少し軽かった。
ジュリアは用事を作らずに、ヘルマンの部屋を訪れました。
二人は話し方の違いを知り、沈黙も少し分け合いました。
次に会うことが、先ほどより楽しみになっています。




