第一部 灰の記憶 22 閉じられた会話
口論がないからといって、二人の間から苦しみがないとは限らない。沈黙にも、それぞれの時間がある。
二人の会話が減ったことに、はっきりとエリゼーが気づいたのは、食事の支度をしているときだった。
「塩は、これくらいでいい?」
問いかけると、エランはうなずいた。
前なら、もう少し薄い方が好きだとか、今日は妙に腹が減っているとか、そんな言葉が続いた。
今は、うなずけば用事が済む。
言い争いがないのはよいことだ、と彼女は思おうとした。
けれども、湯気の向こうにいる人が遠く感じられる夜が増えた。
食卓を挟む距離は変わっていない。
* * *
エランは仕事の帰りに、ときどき遠回りをするようになった。
窓から暮れていく空を見るのが好きな人だったから、彼女はそのことを不思議に思わなかった。
ある夜、帰ってきた彼の外套に雨の匂いがついていた。
「降られたの」
「少しだけ」
「乾かしておくわ」
彼は外套を脱いで、椅子へ掛けた。
「ありがとう」
それだけだった。
エリゼーは布を取りに行きながら、何を話したかったのか忘れてしまった。
たぶん、彼がどこを歩いてきたのか聞きたかった。
でもそれを聞けば、どこにいたのか確かめられていると思わせるかもしれない。
聞かないでいると、関心がないと思われるかもしれない。
相手を尊重するために選んだ沈黙と、自分が傷つくのを避けるための沈黙は、外から見ると同じ形をしていた。
* * *
家の中には、言葉にならないものが少しずつ増えていった。
エランが読みかけの本を伏せたとき、以前ならエリゼーはどの頁が面白かったか尋ねた。
今は話しかける前に、相手が疲れていないかを見た。
彼女が夕方の鐘に耳を傾けるとき、以前ならエランも何か思い出を語った。
今は二人とも、鐘が鳴り終わるまで黙っていた。
ある晩、彼がふいに笑ったので、エリゼーは驚いて顔を上げた。
「何?」
「昔、君が雨を避けようとして水桶の下に潜り込んだことを思い出した」
「そんなことしたかしら」
「したよ。桶が小さくて、肩が全部濡れていた」
二人は笑った。
その笑い声が消えるのを、彼女はいつもより惜しく感じた。
休日に二人で市場へ出たことがあった。
昔と同じ道を歩き、同じ露店の前で立ち止まった。
色の違う小さな石が、木箱の中に並べられている。
エランは一つ手に取った。
掌に置いて傾けると、鈍い光が現れた。
「これ、覚えている?」
彼が尋ねた。
エリゼーは笑った。
「あなたが、綺麗だって言った石ね」
「そう」
ほんの少し、彼の表情がほころんだ。
「買おうか」
彼女が言うと、エランは石を箱へ戻した。
「今日は、見たかっただけなんだ」
以前も同じことを言われた。
覚えているはずだった。
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ」
それは許す言葉のようでもあり、もうその話を終わらせる言葉のようでもあった。
二人は帰り道で雨にあった。
軒の下に避けたとき、エランの肩が彼女の肩に触れた。
引き寄せてもよいのか、分からなかった。
彼も動かなかった。
それでも、少し前までの二人なら、そこで雨の匂いについて何か話しただろう。
軒の下には、荷物を胸に抱えた年配の人がもう一人いた。
その人が滑りそうになると、エランはさっと腕を出した。
相手は礼を言い、彼も短く答えた。
彼の手が誰かへ自然に伸びるところを、エリゼーは久しぶりに見た気がした。
自分にその手が伸びなくなったのではなく、自分が彼の手を待てなくなったのかもしれない。
そう考えて、胸が苦しくなった。
雨がいっそう強くなる。
隣の人が傘のように布を掲げて出ていき、軒下には二人だけが残った。
「寒くない?」
エリゼーが尋ねた。
「少し」
「帰ったら火を強くしましょう」
「うん」
そのやりとりのどこにも間違いはなかった。
間違いがないことと、言葉が届くことは、どうして同じにならないのだろう。
雨が止むまで、二人はただ並んでいた。
* * *
ある晩、エランは食卓に二枚の紙を置いた。
一枚は仕事で使う覚え書きで、もう一枚は何も書かれていなかった。
「話したいことがある」
エリゼーは椅子へ座った。
「聞くわ」
エランは何度か口を開き、そのたび閉じた。
「うまく言えない」
「ゆっくりでいい」
そう言ったあと、彼女は本当に待とうとした。
水を差さない。
理由を尋ねない。
助けになる言葉を探さない。
けれども長い沈黙の後、彼は首を横に振った。
「今日は、やめておく」
エリゼーは反射的に、次はいつ話すのか聞きかけた。
言葉を飲み込んだ。
「分かった」
本当に分かっていたのかは、分からなかった。
エランは紙を折りたたみ、寝室へ持っていった。
夜更けにエランが眠ったあと、食卓の上には彼の置き忘れた筆が残っていた。
エリゼーはそれを洗って乾かし、先の丸くなった側を上にして筆立てへ差した。
もう使わないかもしれない物さえ、置き場所を決めれば失われないような気がした。
けれども筆がそこにあるからといって、紙に何を書こうとしたのか分かるわけではない。
翌朝、エランは筆を見つけ、何も言わずに持ち上げた。
「ありがとう」
それは普段と同じ礼だった。
エリゼーはその礼に縋りたい気持ちと、礼を言わせてしまったことへの申し訳なさを、同時に覚えた。
白い方の紙には、最後まで何も書かれなかった。
彼が話せなかったことを、彼女が代わりに書くことはできない。
その当たり前のことに気づいたとき、エリゼーはひどく無力だった。
それでも次の日には、また仕事へ向かった。
原本の前では分からないことを分からないまま残せるのに、家に戻ると空白を埋めたくなる。
同じ自分の手が、場所によって違うことを求めていた。
夫婦であるという事実は、二人の考えを一つにはしなかった。
彼女がようやくそう認めたとき、エランはもう、自分の言葉を以前ほど差し出してはくれなくなっていた。
沈黙を、誰か一人の責任では説明していません。ここで示した紙は、その内容や、関係の決定的な出来事を確定するものではありません。




