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第六部「異なる岸の記録」 214 向かいの寝台

扉を閉じると、部屋には二人の呼吸が残った。

向かいの寝台まで、手はすぐには届かない。

けれど、ひとりでいる距離でもなかった。

エリゼーは扉の留め具を確かめた。


振り返ると、ハインツはまだ寝台の端に座っていた。

二人きりになったことを、互いに言葉にはしなかった。


「荷を、しまってもいい?」

エリゼーが尋ねた。

「うん。僕のが邪魔なら動かすよ」


彼女は屈み、自分の寝台の下へ荷を収めた。

手を伸ばせば取り出せる。

何度も出し入れするところを考えて向きを変えると、ハインツも自分の袋を見た。


「同じことを考えてた」

「何を?」

「ここでしばらく暮らすんだなって」


エリゼーは手を止めた。

船に乗ることは考えていた。

二人で、小さな部屋の荷の置き方を決めることは、まだ考えていなかった。


彼女は自分の寝台へ腰を下ろした。

向かいのハインツが近い。

膝の向きを少し変えるだけで、相手へ体を寄せたようになる。


「狭いわね」

「嫌?」


すぐに返ってきた問いへ、エリゼーは首を振った。

「嫌ではないの。ただ、何をしていても見えると思って」


ハインツは自分の手を見た。

「見ない方がいいときは、言って」


その真面目な答えに、彼女は少し笑った。


着替えるとき、腕を休めたいとき、何も話したくないとき。

言えばよいことが、幾つもある。

けれど、言う前に分かってほしくなる日もきっとある。


「あなたも、言ってね」

「うん」


ハインツは窓へ顔を向けた。

岸の一部が見えていた。

小さく切り取られると、さっきまでのざわめきが別の場所のことに思えた。


ハインツは、エリゼーが荷をしまう音を聞いていた。

彼女がすぐそこにいる。


困ったことがあれば声をかけられるのは心強かった。

同時に、少し落ち着かなかった。


右腕の痛みをかばう動きも、隠しにくい。

何でも平気だと言っていれば、かえって彼女を疲れさせるのだろう。


「その寝台で、足は伸ばせる?」

彼女に聞かれ、ハインツは少し奥へ座り直した。

「伸ばせる。今は座っていたいけど」


エリゼーは頷いた。

休みなさいとは言わなかった。

彼はそのことに安心し、安心したのを知られたいとも思った。


「一緒の部屋で、よかった」


言葉が先に出た。

エリゼーが顔を上げる。


ハインツは、腕のことがあるから、と続けそうになった。

それも理由の一つだったが、それだけではなかった。


「君が、ここにいるから」


彼女はしばらく彼を見た。

やがて、自分の寝台の端へ手を置いた。


「私も、よかったと思っているわ」


それ以上は続かなかった。

ハインツは頷き、向かいにある彼女の指を見た。


手を伸ばしたくなるが、何かの用事で触れる距離ではない。

触れるために、自分から動く必要があった。


彼は左手を少し差し出した。

エリゼーがその手を見た。


身を寄せ、指先を重ねる。

二つの寝台の間で、腕だけが繋がった。


「このままだと、肩が疲れそうね」

彼女が言った。

「そうだね」


二人とも笑ったが、すぐには手を離さなかった。

エリゼーの指は温かかった。


ハインツは、握る力をどのくらいにすればよいか考えずにいたかった。


先に彼女が指を緩めた。

「食事の前に、少し片づけましょう」

「うん」


手は離れた。

しかし、向かいの寝台は、入ってきたときより近く感じられた。

ハインツは袋を引き寄せ、今度は、彼女が通る場所を空けて置いた。

二人は同室を選んだ気持ちを、短い言葉で伝え合いました。

触れ合った指を離しても、その感触は残っています。

部屋にはまだ、二人で決めていく小さなことがあります。

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