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第六部「異なる岸の記録」 211 岸の声が届く

誰かが何かを言った。それが自分たちに向けてかどうかわからない。

聞いておかなくてはならないことかどうか、それさえ聞かないとわからない。

その行動に移るまでも一瞬の出来事です。

声は、話す途中から明瞭になって、その後薄く消えていた。


「こちらへ」という言葉だけが、明瞭に岸から渡ってきた。

続きは何かを引きずる音に重なり、最後に短い返事がした。

エリゼーは顔を上げた。

声のした方へ目を向けても、誰が誰を呼んだのかは分からない。

人の背が動き、その向こうで別の人が腕を上げた。


そばでハインツが袋の口を押さえた。

持ち上げるつもりなのかと思ったが、彼は紐の端を内側へ入れただけだった。

エリゼーは自分の荷に目を戻した。


「今の、僕たちに言ったのかな」

ハインツが尋ねた。

「岸の方から聞こえたわ」

「うん。そう聞こえた」


彼に顔を向ける。ハインツは何か言いたげではなかった。

ただ、自分と同じところまでしか聞こえていなかっただけなのだ。


エリゼーは、船の仕事の声でしょうと言いかけて止まった。

二人ともまた街を眺めていられるように思ったからだ。

けれど、船の仕事かどうかがはっきりわかったわけではなかった。


「何かしら、私にも分からないわ」

「そうか」

ハインツは袋から手を離した。


それで何かが片づいたわけではない。

彼の目はまだ、声のした辺りを探していた。


ジュリアが二人を見た。

「何と言っていましたか」

「こちらへ、と。その先は聞き取れなかった」

エリゼーが答えると、ジュリアは岸へ目を向けた。


控えをしまった包みは、彼女のそばにあった。

手を伸ばせば届くのに、開こうとはしない。


「呼ばれたなら、返事をしないといけませんね」

「でも、違う人への声かもしれないわ」

「ええ……どちらだったのか、確かめたくなります」


エリゼーは考え、少し遅れて頷いた。


ここに居てよいと誰かに言ってもらいたい、そう深いところでは思っていたのかもしれない。

ジュリアは、移るにしても留まるにしても、その前に尋ねたいのだろう。

そう考えたところで、彼女が何を思っているかまで決めそうになっていると気づいた。


「あなたには、聞こえなかった?」

「声は聞こえました。でも、こちらを見ていたかどうかまでは」

ジュリアは首を振った。

「私は、別の方を見ていましたから」


それを聞くと、エリゼーの肩から少し力が抜けた。

誰か一人が全部見ていてくれたわけではない。

ジュリアは今度は包みに触れていた。

しかし布の端を直すだけだった。

前に受け取った紙を開いて、記録を確認したい衝動が少しあったが、それが今の声の主につながるとは限らない。


「ヘルマンは聞いていた?」

ハインツが尋ねた。


ヘルマンは岸を見たまま、しばらく答えなかった。

「返事をした人はいたね」

「じゃあ、その人を呼んだのかな」

「そこまでは、見ていなかった」

彼は少し困ったように笑った。

「声を追いかけていたら、人が別の方へ動くんだ」

「待っていてはくれないものね」

エリゼーが言うと、彼は頷いた。


どんな事にでも原因があり、その行き着く先がある。

色々なことを、目の前で起きることは特に、記録を生業としてきた者としては

気にかけずにいられない生き様が身についていた。


岸では、二人が何かを挟んで立っていた。

一人の背で手元が隠れ、もう一人は口を動かしている。


先ほど返事をしたのもどちらか分からなかった。

エリゼーは、見続ければそのうち事情が分かるような気がしていた。


しかし、二人は彼女に見せるために働いているのではない。

やがて一人が離れ、隠れていた場所にも別の背が入った。


旅行者や、傍観者にとっては、本当にどうでも良いこと、流してしまっても十分構わない風景の中の川の流れや、風の吹くさまだった。


「近くの人に聞こうか」

ハインツが言った。

「そうね」

「次の案内をこっちに向けて言ってたのかどうか。それだけなら」


それだけ、と彼が言ったことに、エリゼーは少し救われた。

いつ船が出るのかを尋ねるのではない。

この先どうすればよいか、全部教えてもらうのでもない。


聞き逃したかもしれない一つの呼び声についてなら、自分にも尋ねられそうだった。


船上を人が通った。

エリゼーは顔を向けたが、相手は別のところへ声をかけていた。

呼び止める言葉を口の中に残し、通り過ぎるのを待つ。

その人の足音が遠ざかると、ハインツが彼女を見た。


「聞こうとした?」

「ええ。けれど、話していたから」

「僕も、口を開きかけた」


二人は小さく笑った。

誰が尋ねるかを決めていなかった。

それに気づくと、今度はエリゼーが先に言った。


「私が聞くわ」

「ああ」

ハインツは頷いた。

ジュリアもヘルマンも、彼女に何を、どう、という聞くことへの説明を付け足そうとはしなかった。


エリゼーは荷の位置を足元で確かめた。

そのそばを離れず、声をかけられる相手を探す。


少し先で、船側の係員が人との話を終えるところだった。

相手が去っても、係員はすぐにはこちらを向かなかった。

エリゼーは一度息を吸い、吐いた。


教会で人を迎えていたころ、用件を言う前から謝る人がいた。

何を頼むかより先に、自分が時間を取ることを許してほしいのだと感じたことがある。


今、自分も同じ言葉を用意していた。

謝る必要がないとは言い切れない。

忙しいところかもしれない。


それでも、聞き逃したまま頷いている方が相手にも自分にも、そのままではためになるとは思えなかった。


係員が顔を上げた。

エリゼーは片手を少し上げ、目が合うのを待った。

こちらに気づいたと分かってから、声を出した。


「すみません。今、岸から声がしたのですが、私たちへのご案内でしたか」


口にしてみると、用意していた説明の大半はいらなかった。

どこへ向かう旅なのかも、何を命じられているのかも。


エリゼーは手を下ろした。

隣にはハインツがいて、少し間を置いてジュリアとヘルマンがいる。

誰も荷を持ち上げてはいなかった。


今度は、尋ねた相手の顔を見て、返事を待った。

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