第五部「交易都市編」第五幕「港、決断、出航前の乗船」 210 帆はまだ開かない
岸はまだ見える。けれど、立つ場所はもう変わった。エリゼーは畳まれた帆の下で、答えのないものを答えのないまま抱き、選んだ旅の始まりを受け止めている。
船は、まだ港にいた。
エリゼーはこの立ち位置から、何度も確かめた。
岸壁にいる人の足音が聞こえる。
荷を動かす合図、旅客の声や仕事の声も、届いている。
船の上から見渡すエストラーヴは、そこに広がっていた。
少し腕を伸ばせば届くように見える屋根もある。
近過ぎたものは、離れて初めて距離を感じるのかもしれない。
三本の檣の上に、畳まれた帆があった。
風が吹いても、その形は変わらない。
出航のための作業がすべて終わったわけではない。
誰も、今すぐ旅が始まるとは言っていなかった。
けれど四人の足は、もう船の上にある。
エリゼーはそばに立つハインツを見た。
彼は右腕をかばうような動きをするときもあれば、何も気にせず話すときもある。
その変化を、彼女は症状の回復だとは思わないことにした。
「疲れた?」
尋ねると、彼は少し笑った。
「まだ自分で答えられるくらいには」
「それは、疲れてないってこと?」
「少し疲れた。君は?」
「私も」
二人は同じ方を見た。
それだけで済む会話が、今はありがたかった。
ジュリアは控えをしまい直していた。
何度も確かめる癖は、簡単にはなくならない。
エリゼーも、なくしてほしいとは思っていなかった。
記録を正しく扱うことに似て、彼女は自分の選択を自分の手元に置いている。
その姿を見て、エリゼーはうれしさと同時に少しの寂しさを感じていた。
誰かに教えられた人が、いつしか教えた者とは違う道を選ぶ。
そこに裏切りはない。
むしろ、人が歩いた証と言えるのだろう。
ヘルマンは船の上で働く人々から距離を取り、邪魔にならない所に立っていた。
彼が落ち着かない様子で港を見回すのを、ジュリアが見つけた。
「道を探していますか」
「探したって、まぁその。もう僕の知ってる道はないよ」
「それでも、見ているんですね」
「見ていないと、不安になるもんでね」
「見ていたら余計にそうなりませんか?」
「それもそうだ」
周りの人々の口の端が、上がるのをエリゼーは感じた。。
エストラーヴで出会った人々の顔が浮かんきていた。
記録に残すものを選ぶ人。
残さないことで守ろうとする人。
働く場所を閉ざしたまま、その責任からは逃れない職人。
言葉にしたことを取り消せずに苦しむ人。
言わないことを選んで生きるていく人。
どの人との出会いも、旅立つ四人のための出会いではなかった。
彼らには、四人が来る前からそれぞれの生活があり、立去ったあとも続いていく。
エリゼーはそのことを思い出し、刻んでおこうを思った。
行く先の港の名が、何度も浮かんできた。
ヴェリオスは河口と倉庫の町であり
タルマには坂の上に点在する工房の町があり
ロスカには船を直す入り江の町という姿がある
だが、それは誰かから聞いた町の輪郭に過ぎない。
河を運ばれる荷の多さでは、人の暮らしは測れない。
工房の灯りがいかほどあっても、働く人の姿は分からない。
船に取り付き、再び送り出す仕事をしている人がいるとしても、それが見えたとしてもその町の構造がわかったとは言えない。
まして、三つの都市の誰が教会を信じ、何を拒んでいるかなど、この岸からは何も分かりはしない。
ジュリアもエリゼーも、そのために記録係として行くのだった。
今は休暇中の旅人ではない。
マティアス・ヴァレントという名の承認者が署名した命令を、教会から正式に受け取っていた。
しかし、教会に渡すその紙は人々の苦しみを発見したことも、教会を信じる理由を見つけたことも残らない。
四人分の信用証券も受け取った。
けれどまだ使ったわけでもなく、未来の船路を買い切ったわけでもない。
エリゼーは、支えがあることと、守られることを同じ領域に入れてしまいそうな自分を戒めた。
判断を急がず、根拠を確かめ、相手がまだ語っていないことを勝手に埋めないために。
ノルヴァの名も思い浮かべた。
が、それは船の計画上の終点であって、まだ四人の下船を決める町の名ではなかった。
ふと教会の書庫で過ごした日々を思い出す。
記された日付と、出来事が起きた時刻が合わない資料を見たこと。
正しい祈りの言葉を口にしても、魔法の気配が自分に訪れなかったこと。
ずっと前、名も知らぬ誰かに助けられた感触だけが残ること。
それらは今も分からないままだ。
旅に出れば、それらの答えが現れるのだろうか。
それでも、彼女はここへ来た。
エランとの過去を、都合よく終わったことにはできない。
ハインツの傷が癒えたとも言えない。
ジュリアがいつも同じ考えでいてくれるわけでもない。
ヘルマンがすべての道を知っているわけでもない。
四人が同じ船にいるという事実は、それらの違いを消さなかった。
「エリゼー」
ハインツが呼んだ。
「ここにいていいかい?」
それは近くに立っていてよいかという問いにも、もっと長い時間についての問いにも聞こえた。
彼女はどちらにも受け取らなかった。
「ええ。私も、ここにいたいわ」
彼は頷き、手すりに少し寄りかかって立っていた。
岸から、小さく口論の声が聞こえた。
荷を置く場所の相談らしい。
少しすると声は途切れ、別の合図が響いた。
四人は互いの顔を見たが、誰も何が決まったのかは分かっているようには見えなかった。
この甲板の上で立つ四人には、もう分からないことを、無理に自分たちに引き寄せなくてもよくなっていた。
船の仕事をする人々の判断がある。
四人には四人の、選んだ理由がある。
ジュリアがそばにやって来た。
「控えは持っています。必要になれば見られます」
「ありがとう」
「いま見ますか」
エリゼーは首を横に振った。
「いまは、街を見ていたいわ」
ジュリアは何も言わず、並んで立った。
ヘルマンも少し遅れてやって来る。
四人は無理に肩を寄せ合わなかった。
間には風の通る隙間があり、各自の荷を置くための距離があった。
それでも一緒いる感覚は同じだった。
エリゼーは、初めてこの街の門をくぐったときを思い出した。
人の数と声に圧倒され、自分が持ち込んだ問いの小ささを知った。
あのころ、出会いは何かの答えを運んでくるものだと、どこかで期待していた。
今はそうでもない。
違うものを違うまま見つめ、それでも隣に立ち続けること。
答えを急いで質問や疑問に名前を付けないこと。
それがこの街で学んだ、もっとも不確かな、そして失いたくないものだった。
帆はまだ開かない。
船はまだ港にある。
いつ岸から離れていくのか、今ここにいる四人には分からない。
しかし選ばなかった分かれ道の数を思い出すために、彼女はもう振り返らなかった。
エストラーヴの屋根を見つめながら、自分が立つこの場所を感じていた。
まだ何も解決していない。
それでも、ここへ来て、ここを去ることを選んだのは自分だ。
風が変わり、畳まれた帆の端がわずかに鳴った。
まだ帆は開かず、船も動いていなかった。
エリゼーはその静けさの中で、次に聞こえてくる誰かの声を待った。
休暇の終了と正式業務命令への切替え、教会側の命令承認者マティアス・ヴァレント、四人別の信用証券による初期費用の受領をこの改稿で組み込みました。第五部は四人がアルシオン号へ乗船した状態で終わります




