第五部「交易都市編」第五幕「港、決断、出航前の乗船」 207 差し出さない手
手を差し出すのは優しさだろう。では差し出さずに待つことは?
エリゼーはハインツの荷を見ながら、長く抱えてきた善意の形を考える。
ハインツが袋の紐を結び直していた。
左手で布を引き、右手を少し添え、手元の力を確かめる。
痛みがないとは言わない。
けれど、誰かが荷を持ってくれなければ何もできない状態でもない。
エリゼーはそのことを知っていた。
知っていても、紐の端が床へ落ちるたび、指が動きかけた。
「見ているんだね」
ハインツが言った。
「ええ」
「手を貸そうかと思った?」
「何度も」
彼は笑った。
その笑いに安堵してよいのか、エリゼーにはまだ分からない。
旅舎の部屋には出発前の荷が残っていた。
受入れは確かめられたが、乗船の案内を受けるまでは勝手に動けない。
港の仕事は四人のためだけに組まれていない。
同じように、これから寄る三つの港も、四人を迎えるためだけに存在しているわけではない。
川と倉庫の仕事に従う町でも、工房の音が響く町でも、入り江の船を直す町でも、人々には四人の来訪とは別の用事があるはずだ。
エリゼーはその当たり前を、自分の仕事が大切だと思うほど忘れやすいことを知っていた。
教会からの命令を受けてから、四人は別の窓口にも足を運んでいた。
エストラーヴで教会が指定する信用証券の提携先である。
魔法屋で遠隔伝文を送ったからといって、そこから貨幣が現れるわけではない。
教会から認可された登録経路に発行情報を伝え、提携先がその内容と受取人を照合したうえで、実物を交付する。
その順序が整って、ようやく初期視察費用を受け取れるのだった。
窓口の担当者は、一枚の大きな券面を四人分まとめて差し出すことはしなかった。
「それぞれの方への割当です。共同で管理される予定と、受け取る方が誰かということは分けます」
エリゼーの分
ジュリアの分
ハインツの分
ヘルマンの分
一通ずつ、対応を確かめて並べられた。
証券の発行元は教会だが、ここでの受渡しは提携先の仕事である。
何をいくらの現地貨幣や品に換えられるかは、実際に利用する土地の経済条件から切り離せない。
誰も、将来の兌換価値まで保証されたとは受け取らなかった。
「私は、エリゼーの部下ということにはならないんですよね」とジュリアが尋ねた。
「なりません」とエリゼーより先に担当者が答えた。
「証券の割当は別です。管理については、皆さんの決めた範囲で共同の確認をなさってください」
ジュリアはその言葉を聞いても、ただ安堵したとは言えなかった。
自分の権限を守ることと、他人の労苦を疑わず受け取ることが、まだ心の中で一つに収まらない。
ハインツは差し出された証券を左手で取り、券面の名を確かめた。
「教会では、僕は家族の扱いなんですね」
「旅費の計算と支給上の扱いです」とエリゼーが答えた。
「ほかの何かを決めたことにはならないわ」
「知ってる。分かっていても、少し変な気分だ」
二人は笑わなかった。
家族という短い言葉が、何年も積み重ねた違いをたちまち消すわけではないからだ。
正式な婚姻の届出をしたわけでもない。
同じ旅をすることと、同じ法的な身分になることも違う。
ヘルマンの券面には、臨時職員に対する旅費割当として取り扱うことが示されていた。
「案内の仕事が済んだからといって、これを私費の祝い金にするつもりはありませんよ」
彼が言うと、ジュリアは少しだけ口元を緩めた。
「使うときには、その都度確認が必要です。まず受け取った事実と、使った事実を分けておきましょう」
「それなら、私でも間違えずに話せそうだ」
四人は個別の受取人としてそれぞれの証券を確認し、初期費用の交付を受理した。
エリゼーとジュリアは、四人分を共同管理することについて互いの理解を確かめ、受領の控えと券面を区別して納めた。
代理受取の権限を誰かへ無制限に渡したわけではない。
その場で兌換も支払いも行っていない。
教会からの金を受け取ることと、それを正しく使えることも、同じ動作ではなかった。
旅舎へ戻ってから、ハインツが袋の紐を結び直しているのを、エリゼーは見ていた。
受け取った紙片の重さではなく、それを持って歩く人の意志について、彼女はまだ考えていた。
船側の受入れの説明を初めて聞いたとき、エリゼーは自分たちが旅客という一つの役割に収められることを少し不思議に感じた。
仲間同士では、皆違うことばかり考えているのに。
「持てるかどうかだけを、私は気にしていたのかもしれない」
彼女は言った。
「持ちたいかどうか、ってこと?」
「そう」
「今日は僕が持ちたい。でも、持てないときは頼むよ」
「いつ頼むかは、あなたが決める?」
「そうしたい。だけど、危ないと気づいたなら言ってほしい」
エリゼーは息を吐いた。
差し出してはいけないのではない。
差し出す前に、相手の意思を聞けばよい。
その簡単なことを、自分はどれほど遠回りして覚えたのだろう。
彼女は幼いころ、助けられた記憶を思い出した。
顔をはっきり確かめられないまま、そこにいた誰かの手の温かさだけが残っている。
その人の名を知らない。
知らないからこそ、勝手にどんな人だったかを決めないでいる。
いま目の前にいるハインツには名前があり、声があり、断ることのできる意思がある。
それなのに時折、自分の恐れを埋めるために相手を守ろうとしてしまう。
「あなたが怖いんじゃないのよ」
彼女が言うと、ハインツは紐から手を離した。
「僕が痛むのを見るのが?」
「それもあるわ。何かが起きたとき、自分にできることがないかもしれないのが怖い」
「魔法のこと?」
エリゼーは頷いた。
教会の記録係であり、祈祷の言葉を知る自分が、魔法を使えない。
その事実は誰かに説明すれば軽くなるようなものではない。
ハインツは、それを治るべき欠けとして扱ったことがなかった。
だからこそ彼女は、時々、彼に何かをしてあげなければならないと思い過ぎる。
「君にできることがない日もあるさ」
彼は言った。
「僕にも、君にできることがない日がある」
「そうね」
「それが元で一緒にいられないなら、ずいぶん窮屈だ」
エリゼーは笑おうとしたが、うまくいかなかった。
その代わりに涙が少し出た。
彼は手を伸ばさなかった。
それが冷たいとは感じなかった。
やがて彼女が「持ちましょうか」と尋ねると、ハインツは首を振った。
「いまは大丈夫」
「分かった」
「でも、戸を開けておいてもらえる?」
「もちろん」
二人はそこで初めて笑った。
助けを求めるのに、傷ついた場所を証明する必要はない。
助けを断るのに、強さを示す必要もない。
「君が最初に手を貸そうとした日を覚えている」
ハインツが唐突に言った。
「そんなに昔のこと?」
「そうでもない。でもそのとき、僕は助けられることより、弱いと見られることが嫌だった」
「今は?」
「まだ嫌なときはあるよ。だけど、君の手を見るだけで怒らなくてもよくなった」
エリゼーは返事を探さなかった。
変化に名前を付けてしまえば、その形で止めてしまう気がしたからだ。
彼がまだ腹を立てる日があっても、二人で話し直せるならよい。
廊下へ出ると、ヘルマンが港からの伝言を持って戻ってきた。
次の案内を受ける時間についての知らせで、船側の仕事の進み具合に従うようにとのことだった。
四人はそれを聞き、荷を運ぶ順番を相談した。
エリゼーはハインツの袋の大きさを見たが、すぐには手を出さなかった。
「その袋、持つのを頼まれることはある?」
「あるかもしれない」
「そのときは言って」
「うん」
たったそれだけで、話は終わった。
以前の彼女なら、もっとよい言葉があるのではと探しただろう。
今は、終えられる会話があることを大切にしたかった。
窓の外で、港の方角から何かを打つ短い音が聞こえた。
船はまだそこにいる。
ハインツも、いまここにいる。
自分にできることを探すのは、その事実に耐えられなくなったときではなく、相手が求めたときでもよい。
エリゼーは開けた戸のそばに立ち、彼が荷を抱えて出てくるのを待った。
右腕の回復途中という設定と二人の距離感を維持しました。四人は教会発行の個人別信用証券をエストラーヴの指定提携先から受領し、初期視察費用の交付を受理します。




