第五部「交易都市編」第五幕「港、決断、出航前の乗船」 205 岸に置くもの
案内する者にも、知らない海はある。ヘルマンが手放そうとするのは荷物よりも、仲間の行き先まで自分が決めてきたという思い込みだった。
ヘルマンは朝の港を、いつもより遠くから見た。
旅舎の前に立てば、道順を伝えたくなる。
どの通りが荷車で混むか、どこを回れば窓口に近いか。
何かを知っていることが、自分の役割になる。
しかし今日は、それを言葉にしないで歩いていた。
エリゼーたちと街道を歩いた日々、毎日問いが絶えなかった。
坂の先に水があるか。
暮れる前に村へ着けるか。
誰の家へ相談すればいいか。
答えられない日もあったが、案内役であることを誇りにできる日々であった。
海の地図には、自分の歩いた足跡がつかない。
ヴェリオスの河口
タルマの石の坂
ロスカの入り江について
彼は港で聞いた断片を思い返した。
荷を川上へ運ぶ者がいるという。
石を焼き、打ち、削る仕事が多い町もあるという。
海の仕事で暮らす人が多い港もあるという。
しかし、それを知ったところで、そこで暮らす人々のことを、これからの先を案内する事にはならない。
ノルヴァが広域の交通の結節点だという説明を聞いても、四人がそこで下船すると決まったわけではなかった。
それはまだ理解の先にあったが、決まらないことが意外であった。
長く旅をしたせいで、知らないことを減らすのが旅の目的だと思いかけていた。
岸壁の端に、小さな露店が出ていた。
持ち帰るにはかさばる品ばかりが並ぶ。
ヘルマンは何も買わず、売り手に港の混み具合を尋ねた。
「船に乗る人かい」
「そのつもりです」
休暇が終わり、教会から三都市の視察が命じられたことを、ヘルマンはなんとなく聞いていた。
臨時職員という扱いは、道案内であっても、海の航路を知る船長になれるわけでもない。
二人いる記録係の代わりに判断する権限を渡されているわけでもない。
自分の役目が新しい名として呼ばれのかと思うと、できることとできないことを確かめたくなった。
「なら、窓口の話を聞くことだよ。私の話は売り物の話だからね」
そう言って売り手は笑った。
ヘルマンも笑った。
適切にそのあたりの人に尋ねていけば、何でも分かるというわけではない。
それでも、誰に尋ねるべきかを考えて行動するのは、旅の技術なのだろう。
荷運びの列が近づいたので、彼は道を空けた。
最初にこの街へ来たとき、四人は門の前で足を止めた。
開かれた門をくぐる前、自分たちが迎えられる側であるのかどうかも確かではなかった。
そして街に入ってから、多くの人が仕事を続けるのを見た。
住む場所も祈り方も違う人々が、同じ空の下で互いに干渉し、時には助け、時には距離を置いていた。
そレラのすべてを案内して回ることなど、初めからできなかった。
港の向こうでは、旅人と働き手がすれ違う時に、道の幅がほんのわずか変わってみえた。
誰も大きく道を譲ったつもりはないのだろう。
けれど、そうした小さな動きがなければ、荷も人も進めない。
案内役だったころのヘルマンは、道幅の足りなさを誰より早く見つけ、自分が声を掛ければいいと思っていた。
今は声を掛けるより前に、そこにいる人たちが自分で道を作っているのを眺めていた。
ジュリアが追いついてきた。
「一人で出たと聞きました」
「買い忘れがないか見に来ただけさ」
「何か買いましたか」
「何も」
「それは、買い忘れを確かめたことになりますか」
彼は笑ってしまった。
彼女も笑ったが、少しして表情を戻した。
「あなたが知らない道を、私たちが歩きたいと言ったら、どうしますか」
「先に聞くと思うよ。どうして行きたいのか」
「前を行きたいと言ったなら」
「危ないからやめろと言っていたかもしれない」
ジュリアは否定しなかった。
それがヘルマンにはありがたかった。
昔の自分を知る人が、以前と今を無理に同じだと言わずにいてくれる。
「君たちが海へ行きたい理由を、僕は全部知らない」
彼が言うと、ジュリアは頷いた。
「私も、あなたの理由を全部知りません」
「なのに同じ船に乗る」
「同じ理由だからではなく、同じ船へ乗るとそれぞれ決めたからでしょう」
港の風が、彼の上着の裾を持ち上げた。
遠くで檣が揺れて見えたが、船体が動いているわけではない。
海に出る日はまだ約束されていない。
それでも自分たちの名は、すでに受入れの控えにある。
ヘルマンはふと、これまで案内した人々の顔を思い浮かべた。
誰かを安全な場所へ連れていけたと思ったこと。
道を外れて、後から謝ったこと。
親切のつもりで、別の選択肢を言わなかったこと。
旅の途中で生まれた数え切れない小さな判断は、どれも消えない。
しかし次の判断を、すべて自分だけで引き受ける必要もない。
「岸に置いていくものは?」
ジュリアが尋ねた。
「荷物じゃなくて?」
「荷物でも、そうでなくても」
ヘルマンは少し考えた。
「全部知っている案内人のふりかな」
「それ、今も持っていたんですか」
「はは、かなり重たかったよ」
二人は港を離れ、旅舎へ戻る道を歩いた。
ヘルマンは先を急がなかった。
途中でジュリアが別の小道を選びたいと言うと、彼は「どんな道か知らない」と答えた。
「それなら、確かめて歩きましょう」と彼女が言った。
二人はその道を選んだ。
知らないまま進むことは、いつも無謀ではない。
自分の知らなさを隠したまま人を導くことの方が、危うい場合もある。
旅舎の戸が見えたとき、ヘルマンは案内役の仕事が終わるのだと思った。
少し寂しかった。
けれど終わるのは、四人の関係ではない。
彼は戸を開ける前に立ち止まり、後ろから来るジュリアを待った。
今度は、自分だけ先に入らないためだった。
ヘルマンの変化を案内知識の増加ではなく、仲間の判断を尊重する態度として描きました。




