第五部「交易都市編」第五幕「港、決断、出航前の乗船」 204 受け入れられること
扉が開いたと告げられても、その先へ進む足がすぐ軽くなるわけではない。エリゼーにとって、選んだという事実は、思いがけず重かった。
エリゼーは受入れの控えを、鞄の上に置かなかった。
持ち歩くには軽い紙だったが、手に取るたびに紙に書かれた重みを確かめたくなっていた。
名前を書いたから、何かが解決するわけではない。
次の港の名は覚えた。
河と海を結ぶヴェリオス
丘の工房のあるタルマ
入り江を抱くロスカ
そして陸へ道が延びると聞くノルヴァ。
それらは港について聞かされた大まかな姿でしかなかった。
そこで暮らす誰かの考えや、教会への気持ちまで分かったように感じるのは、名前を地図に書くよりずっと危うい。
エリゼーはその区別を、自分の手帳の中にもしっかり刻んだ。
そして心の中でも失いたくなかった。
そんな当たり前のことを、いまさら自分にもう一度説明しなければならなかった。
旅舎の窓から見える屋根の間に、港の檣が一本だけ突き出ていた。
角度を変えると見えなくなる。
エリゼーは椅子をずらして、見えるところを探した。
見えないときには存在しないと思い、見えたときには近すぎると思う。
自分の心の方は、今までと比べてよほど落ち着きがなかった。
その朝、石楔旅舎へ来た知らせは、船側からではなかった。
魔法屋に教会からの返信が入ったという。
エリゼーはジュリアと顔を見合わせた。
「先に行きましょう」とジュリアが言った。
「二人とも、同じ文を読まなければ」
店の受信担当は、受信した文字を自分の手で写していた。
紙を机に置く前に、教会に登録された宛先と伝達経路、発信権限の確認範囲を説明した。
今届いた文が、正体の分からない誰かの命令ではないか。
既存の休暇の扱いにどう関わるのか。
エリゼーとジュリアは、単に教会らしい文章が届いたというだけでは決めなかった。
教会からは、目的の異なる二通が届いていた。
一通目は、先に送った休暇延長申請を受け取ったという、はっきりとした返答だった。
これでようやく、あの申請の送信と教会による受領とを区別できる。
二通目は、休暇延長の承認ではなかった。
『エリゼー・ロタスト、ジュリア・ロッソの従前の休暇扱いを、本命令の受領をもって終了する。
以後の移動と指定地域に関する調査を、教会の正式業務として命ずる。
指定の視察地はヴェリオス、タルマ、ロスカ。この順序を基本とする。
各地の現況、住民の生活・労働・地域社会のありよう、教会に対する人々の受け止め方を、確認し得た範囲で記録し、報告せよ。
敵対的立場にある地域と中立の地域を含め、現地の判断を教会の名で代行することは許されない。
帰還の時期と方法は、この命令では指定しない。』
末尾に、派遣命令承認者の氏名があった。
マティアス・ヴァレント。
教会側で今回の休暇扱いの終了と視察命令を承認した者として記されている。
その名は、エリゼーにもジュリアにも特別な意味を与えなかった。
本文とは区別して、四人分の初期視察費用を教会発行の信用証券で支給するという記載もあった。
エリゼーとジュリアへの個別割当
旅費上の家族として扱うハインツへの割当
臨時職員として扱うヘルマンへの割当。
しかし、通信で数字や発行情報が届くことと、エストラーヴで実物の信用証券を受け取ることは同じではない。
教会から指定受け取りの提携先への発行案内は、命令文とは別に、認可された経路で扱うこと、とのことだった。
金額や交換価値を、まだ受領もしていない紙の重さで測ってはいけない。
署名のある命令だからといって、彼女たちがこれからの見知らぬ街で何を知ることになるか、署名者がそれを知っているわけではない。
「休暇の延長は認められなかったのですね」とジュリアは言った。
「それだけではないわ。終わるのは休暇中の身分で
これからの仕事は命令に基づくものになる」
「二人とも、同じ権限ですね」
「同じ任務を受ける。
でも、あなたの判断を私が引き受けるわけではない」
二人はもう一度、受領によって身分が切り替わるという箇所を読んだ。
過去の休暇中の行動を遡って業務に置き換える、と書いてあるわけではない。
いま受け取ったところから、休暇が終了したのだ。
店を出る前に、二人は命令を受領した旨の返答を、新たな伝文として教会の登録先へ送った。
それは別の送信であり、向こうがその返答を受け取ったかは自動では分からない。
手元の控えには、受け取った命令と、送り返した確認文とが別々にあった。
命令に記された承認者の名前や、その他の教会権限をここから先、自由に行使してよいという許可ではなかった。
店を出たジュリアが言った。
「休んでいた者が、ただ仕事へ戻ればよいという話ではありませんね」
「ええ。知らない町へ、教会の名前を持って行くことになる」
「だからこそ、誰かの答えを先に決めたくありません」
エリゼーは頷いた。
教会の命令が二人の立場を定めても、まだ会っていない人々の暮らしを定めることはできない。
旅舎に戻ったエリゼーは、さきほどの窓辺へもう一度椅子を寄せた。
「座り直したら」
ハインツが言った。
「何度も椅子を動かしている」
「落ち着かないの」
エリゼーは素直に答えた。
「知ってる」
「そんなに分かりやすい?」
「僕が見ているからだと思う」
その返事には得意そうなところがなく、彼女はかえって困った。
同じ船へ乗ると決まったことを、二人は喜んでもよいのだろう。
けれど彼の右腕がまだ回復途中であることも、海の上で自分たちの知識が役に立たない場面があることも消えない。
エリゼーは自分が魔法を使えないことを、旅の選択から除外するつもりはなかった。
祈祷文を正しく知っていても、誰かを癒やせるわけではない。
それは幾度も確かめた現実であり、ここで新しい物語に書き換えてよい事実ではなかった。
「怖いかい?」とハインツが尋ねた。
「怖いわ」
「何が一番?」
彼女は笑った。
「一番を選べないこと」
彼も笑った。
それ以上、勇気を求められなかったことに、エリゼーはほっとした。
机の紙を見て、彼女は昔の自分を思い出した。
誰かの名が書類に残れば、その人の出来事は正しい場所へ収まると信じようとした時期がある。
しかし実際には、書類のなかに入りきらない痛みがあり、書かれた名を読むだけでは届かない沈黙がある。
記録係であることが、他人の人生を終わりまで説明できることにはならない。
港にいた間、エリゼーは何度か、自分が誰かに祝福される姿を想像した。
しかしいざ受入れが決まってみると、祝福の言葉よりも、明日どの服を着ていくかが気になった。
こんな小さなことを考えている自分は軽薄だろうか。
そう思った次の瞬間、人生が変わる日に靴紐を結ぶ人だっている、と彼女は考え直した。
大きな決断をしたからといって、暮らしの細部が消えるわけではない。
変わらないものを一つずつ確かめることが、今日の自分に必要なのかもしれなかった。
ジュリアが訪ねてきた。
「控えの写し、どこに入れましたか」
「忘れたわけじゃないわ」
言ったとたん、エリゼーは自分が身構えたことに気づいた。
「ごめんなさい。いま、何でも責められているみたいに聞こえるの」
ジュリアは戸口で立ち止まった。
「責めるつもりではありませんでした。でも私の聞き方も短かったかもしれません」
「あなたは悪くない」
「どちらが悪いか決めなくても、言い直せます」
その言葉に、エリゼーはしばらく答えられなかった。
正しいことをしなければならないと思い詰めると、人は相手の善意まで判定しようとする。
彼女はそんな自分の癖を知っていた。
知られたくないと思っていた。
それでも、ジュリアに知られて少し救われた。
三人が小さな机を囲み、必要な紙をそれぞれ自分の荷へ戻した。
ヘルマンは別の部屋で港までの道を聞いていた。
道案内の役割を手放せないのかと、からかえばきっと彼は笑うだろう。
けれど知らない道へ向かうからこそ、確かめられることは確かめたいのだ。
エリゼーには今、その気持ちが分かった。
「私は……選んだのね」と彼女は呟いた。
ハインツは頷くだけだった。
「あなたに連れていかれるのでも、誰かから逃がしてもらうのでもなく」
言った途端、その言葉が強すぎる気もした。
過去から逃れたい気持ちがないわけではない。
それでも、何かから逃げることと、自分で進むことは必ずしも反対ではないのかもしれない。
夜になって、外の檣は見えなくなった。
そこに船があることは変わらない。
エリゼーは椅子を元の場所へ戻した。
見えない時間をやり過ごすために、家具まで動かし続ける必要はない。
この部屋を出る日が来る。
そこに立つことを決めたのは、自分だった。
その事実だけを、今夜は机の上に置いておこうと思った。
教会は休暇延長の申請を明示的に受領し、休暇扱いを終了して正式業務命令へ切り替えました。
今回新設した教会側承認者名はマティアス・ヴァレント。魔法の申請受領確認・命令受領・確認返信を別の伝文として扱い、魔法の自動記録や自動受領通知を創設していません。
初期費用の現物受領はもう少し先になります。




