第五部「交易都市編」第五幕「港、決断、出航前の乗船」 203 四つの名前
四人が同じ旅を望んでも、名前を呼ばれたときの返事は一人ずつ違う。今日、紙の上に残るのは、互いの代わりには書けない四つの意思だった。
ジュリアが筆を持ったとき、思いのほか指が冷たかった。
港の窓口は昨日と同じ匂いがした。
墨と木の乾いた匂い、戸が開くたびに運ばれてくる潮と湿った麻の匂い。
自分たちには特別な日であっても、港は特別な顔をしない。
クララは書面を一枚ずつ並べた。
「受入れの条件と荷の取り扱いについて、昨日までに確認したことは控えに残しています。なお、実際の受け渡しはそのときに確かめます」
「説明と実施は別なのですね」とジュリアが言う。
「はい。実施したことに先回りして書くつもりはありません」
その言い方が、ジュリアにはうれしかった。
謝ったとしても、その後の対応も誠実でいられると分かるときがある。
書面には、旅客として受け入れられることと、商船の航行が予定どおり進むことは別だと記されていた。
運航の予定欄には、エストラーヴからヴェリオス、タルマ、ロスカを経てノルヴァに至る順序が示されている。
けれど、寄港すること、そこで人が降りること、そこから別の道へ進むことは、同じ一行には書かれていない。
ジュリアは終着港の名前を見た。
しかし、その先の四人の帰路をまだ考えはしなかった。
クララは船側の確認が整ったことも伝えた。
ただし乗船の手順と、その時点の港の作業については、あらためて案内を受ける必要がある。
ジュリアは、書いてあることと口頭で聞いたことが違っていないか、最後まで読み返した。
最初に名を呼ばれたのはヘルマンだった。
「ヘルマン・バウマンさん」
彼は短く返事をし、書面を受け取った。
道の先を尋ねられれば先回りして答える男が、そのときは返事の後を急がなかった。
ひと呼吸置いてから、筆を動かした。
「ジュリア・ロッソさん」
自分の名を聞き、ジュリアは立った。
いつも他人の言葉を書き留めるとき、彼女は書かれる側がどう感じるか気にしてきた。
今日は自分が書かれる側でもあり、書く側でもあった。
自分の手から出た文字が、自分の意思として扱われる。
当たり前のはずであったが、少し不思議怖だった。
「分からない点は、これで残っていませんか」とクララが尋ねた。
「先のことでまだ分からないことはあります。でも、今日ここで確認できる範囲は分かりました」
ジュリアはそう答えて、名前を書いた。
ハインツは筆を左手から持ち直し、紙の位置を調整した。
彼がどう書くか、誰も決めていなかった。
「ハインツ・ホリガーさん」
クララの声に、彼は顔を上げた。
「はい。私の意思です」
何を補足する必要もない返事だった。
しかし彼には、その短さを選ぶまでの長い時間があった。
最後にエリゼーが呼ばれた。
「エリゼー・ロタストさん」
その名は、彼女の過去がそこに残る名でもある。
ジュリアは一瞬、エリゼーの顔を見た。
彼女が何を思い出したか、知ることはできない。
長く付き合ってきた人の沈黙だからといって、意味まで自分のものにはならない。
エリゼーはまっすぐ紙を見つめ、自分の手で署名した。
クララは署名の筆跡を一つずつ見た。
同じ紙に同じ条件を載せれば、四人に同じ意味を与えられると、かつては考えがちだった。
しかし一人は不安を残したまま名前を書き
一人は意識してためらい
一人は知らない道を認め
一人は過去と同じ名を今の意思で使った。
筆跡の違いだけでは分からないが、同じではないということは、今のやり取りから十分分かる。
四つの名前がそろうと、クララは控えと照合した。
間違いがないことを確かめ、船側の旅客受入れについて確認済みの印を示した。
「条件に基づく受入れは、これで確認できました」
四人にとって、これは船側との旅客受入れだった。
ジュリアは、さきほどの署名によって教会の休暇延長が承認されたわけでも、教会の任務が始まったわけでもないと心の中で確かめた。
ジュリアは、その言葉を自分の中でゆっくり置いた。
受け入れられた。
まだ乗ってはいない。
船が港を離れたわけでもない。
それでも、昨日までとは違う場所に立っている。
「おめでとうございます、と言うべきでしょうか」
クララが困ったように笑った。
ヘルマンは首を傾げた。
「お祝いなら、もう少し荷が軽くなったときにしてください」
彼の冗談で、四人はようやく笑った。
ジュリアは控えを受け取った。
自分の名がほかの三人の名と近くに並んでいる。
だがその間に線が引かれていないことを、不安とは思わなかった。
共に行くためには、ひとつの名になる必要がない。
むしろ違う四つの返事があったから、同じ船へ行く話が成立したのだ。
窓の向こうを荷役の人々が通り過ぎた。
彼らは四人の名前を知らない。
それでも、その働きがあって船は旅客を受け入れることができる。
その事実も、紙に書き切ることはできないだろう。
ジュリアは机の端に残った墨のしみを見た。
一度付いたものは消せないが、それがすべてを決めるわけでもない。
帰り道、ハインツが「それで、どう感じた」と尋ねた。
ジュリアはすぐに答えなかった。
「まだ、うれしいだけじゃありません」
「それでいいんじゃないか」
「分かりません。でも、そう答えたかったんです」
彼はそれ以上聞かなかった。
四人が旅舎へ向かう背中は、歩幅も荷の形も違っていた。
ジュリアは胸の内で、呼ばれた四つの名前を順に確かめた。
どれも誰かの代わりの名ではない。
そのことを記した控えを、彼女は自分の荷にしまった。
四人が個別に意思表示・署名し、船側の旅客受入れが成立しました。ただし教会の休暇申請への回答と正式命令は、船側の受入れとは独立しています。受入れ・乗船・出航も別の出来事です。




