第五部「交易都市編」第五幕「港、決断、出航前の乗船」 202 署名の手前
誰かのために考えることと、その人の代わりに決めること。二つがよく似て見えるほど、署名の前には長い沈黙が生まれる。
旅舎の机
そのに並んだ四枚の紙は、どれも同じ大きさで、文字もほとんど同じだった。
名前を書き入れる場所も、条件を確認したことを示す欄も、見比べれば違いはない。
けれどハインツには、それらが一つの約束に見えなかった。
その紙を前に、エリゼーとジュリアはもう一つの用事を確かめ合っていた。
二人の休暇は、いまの船の計画によって自動的に延びるものではない。
海路を選ぶなら教会へ期間の再検討を願い出なければならず、その返事が来ないうちは、休暇の扱いも変わらない。
「私は、延長を求める通信文を送るつもりです」とジュリアは言った。
「私もそう思う。でも私たちが連名でそれを送る理由と、個々の理由、意思は同じではないのよ」とエリゼーが答えた。
「一緒に送ることと、同じになることは違いますね」
二人は、同じ宛先へ送る文章の中でも、各自の申請意思を区別して書いた。
港へ向かう人波とは別の流れを抜け、二人はエストラーヴの登録された魔法屋へ行った。
そこには「遠隔伝文」の送信を扱う者がいた。
エリゼーが自分で術を使うことはできない。
ジュリアはジュリアで
ここから教会へ送ったとしても、返事を即座に引き出せるとは思ってはいなかった。
受信するには、向こう側の拠点に受け手の魔法使いが実際に待機していなければならない。
送信内容が向こうへ送られ、確実に届いたことをこちら側で知る仕組みはない。
二人は宛先と教会が認められた経路を確かめ、休暇延長の希望と現在地、今後の移動計画のうち必要な部分だけを伝えた。
三都市の暮らしについて、まだ知らないことは書き足せなかった。
「向こうに届きましたか」とジュリアが尋ねると、店の者は首を振った。
「送ることはできました。相手が受け取ったかは、別の返信を待たなければ分かりません」
二人は送った文面の控えを残した。
その場では、送信済みであっても、受領は確認できていない。
エリゼーは『延長を願い出た』ということと、『延長を認められた』ということの間に、超えられない線があると感じた。
旅舎へ戻ると、ハインツとヘルマンが四枚の紙を前にして待っていた。
教会からの返事を知らないまま
船に乗船することへのためらいは、四人でそれぞれが違っていた。
目の前にある旅客条件は、教会からの返答とは別の約束として読まなければならない。
「読みづらければ、声に出すわ」
エリゼーが言った。
「読めないわけじゃない」
ハインツは答え、それから声の固さに気づいて顔を上げた。
「今は、自分で読みたいだけだ」
「そうね」
エリゼーはそれ以上言わなかった。
ハインツは左手で紙の端を押さえた。
右腕を痛めてから、自分の動きに向けられる視線を以前よりよく感じるようになった。
すぐ手を貸す者もいれば、わざと何も見ない者もいた。
エリゼーには、そのどちらでもなくいてほしかった。
それを願いながら、どう振る舞えばよいか自分でも伝えていない。
ジュリアは条件の一行を指でなぞった。
「運航の予定は、決まった日に必ず動く約束ではないんですね」
「うん」とヘルマンが答えた。
「エストラーヴからヴェリオス、タルマ、ロスカ、そしてノルヴァ。順番が書いてあっても、港の事情までここに書き尽くせるわけじゃない」
「名前を知っていることと、町を知っていることは違います」
ジュリアは紙を指で押さえた。
「私たちは三つの町で人々の暮らしを調べることになっています」
ハインツはその言葉を聞きながら、自分が知らない場所に行きたいと言うことへの、少し身勝手な感覚を思った。
知らないと認めて行くのと、知ったつもりで行くのとでは、同じ船でも立つ場所が違う。
「昨日までの説明とも合っている」
「私は、合っているかどうかを自分の目でもう一度見ます」
彼女の声には、責める調子がなかった。
自分の記録を他人に任せきりにしないときの、静かな調子だった。
「荷の確認が済むまでは、受け渡しについて決めつけない」
ハインツは読み上げた。
「それでいいと思う」
「いいと思う、じゃ足りないのか?」
ヘルマンが言いかけ、そして言い足した。
「すまない。君がどう受け取ったかを聞くべきだった」
「僕は、自分の袋のことを誰かに勝手に決められたくない」
ハインツは少し笑った。
「でも、何でも一人で運びたいわけでもない」
エリゼーは窓の方を見ていた。
彼女が何かを我慢しているように見え、ハインツは胸の奥が落ち着かなかった。
自分の意思を尊重してほしいと言いながら、彼女の我慢には気づいてしまう。
相手の沈黙まで自分の責任にしてしまえば、二人とも動けなくなる。
「嫌な言い方をした」
彼が言うと、エリゼーは振り向いた。
「嫌ではなかったわ。少し痛かったけれど」
「違うのか」
「違うこともあるでしょう」
彼女は紙を持ち上げた。
「あなたが自分で読むのは当たり前よ。ただ、私は役に立ちたいと思ってしまったの」
「それは、止めてほしくない」
「私にもどうしたらいいか、分からない時がある」
「なら、今聞いて」
ハインツはそこまで言って、自分の言葉が簡単すぎたと思った。
聞かれることに、いつも答えられるわけではないからだ。
四人が読み終えた行を、ハインツはもう一度目で追った。
約束の文章は曖昧さを消すためにあるはずなのに、読んでいる自分の気持ちまでは明瞭にならない。
かつて商人隊を守ったときも、守るべき荷と人を一つに数えれば判断が簡単になると思ったことがあった。
右腕に残る鈍い違和感は、その考えがいつでも通用するわけではないと教えている。
今この部屋で、誰かの答えを自分のものと混ぜずにいるのも、別の仕事なのだろう。
廊下から、旅舎の主人が戸を叩く音がした。
水の容器を置いていくという。
四人は礼を言い、紙をひとまず裏返した。
外では誰かが笑い、車輪が石畳を踏んで通り過ぎた。
街の営みは、四人の署名を待っていない。
その事実が、ハインツには少し救いだった。
「この先、僕たちが別々の答えを出したらどうする」
ヘルマンが言った。
「考え直せるところまでは考え直す。でも、同じ答えを押しつける理由にはならない」とジュリアが答えた。
「そうなったら、旅そのものを相談し直すのね」とエリゼーが言う。
誰にも、そんなことにはならないと約束は出来なかった。
ハインツは紙を表へ返した。
船での振る舞いを制限される部分もある。
貨物を優先する仕事の都合を理解する必要もある。
自分の思う通りに動けないときがあるだろう。
それを知った上で、なお行きたいのか。
彼は窓の外ではなく、同じ机の向こうに座る三人を見た。
守りたい人がいるから行く。
そう言えば聞こえはよい。
だがその人が行かないと言ったとき、同じ言葉で引き止めるのなら、守るという言葉は誰のためにあるのか。
以前なら答えを急いだかもしれない。
いまは、その問いが残ることを引き受けられた。
「僕は乗りたい」
やっとハインツは言った。
「誰かを連れていくためじゃない。僕が行きたいんだ」
エリゼーは小さく息を吐いた。
それが安堵か、別の感情かは読み取れなかった。
「私も、自分で答えるわ」
「ええ、私も」とジュリアが言った。
ヘルマンは頷き、四枚の紙を一枚ずつ、それぞれの前へ戻した。
まだ誰も名前を書いていない。
しかし、署名の手前にいるということが、逃げていることと同じではなくなっていた。
ハインツは筆記具を手元に置き、右腕の位置を整えた。
自分で決めたことを、他人に見せる準備ができつつあった。
ハインツの右腕の回復途中の状態と各人の自由な乗船意思を維持しました。エリゼーとジュリアは教会へ休暇延長を魔法で申請しましたが、この章末では受領確認も延長承認もまだ成立していません




