第一部 灰の記憶 20 善意の輪郭
誰かを守ろうとする心は、相手の望みを聞き取る力と、いつも一致するわけではありません。
エランが仕事の後で疲れた顔をしていると、エリゼーはすぐ気づいた。
声の調子が少し低い。
食卓につくのがいつもより遅い。
それだけで、何かをしてあげなければと思う。
ある晩、エランは器の中を見つめたまま言った。
「今日は、話すだけにさせてほしい」
彼女はうなずいた。
彼はその日、人に頼まれたことをうまく断れなかったと話した。
誰かの期待に応えようとすると、自分が何を望んでいるのか分からなくなる。
そんな話だった。
エリゼーは彼の言葉を聞きながら、すでに何をすればよいか考え始めていた。
明日は早く休ませた方がよい。
食事の支度は自分がすべて引き受けよう。
頼まれごとのことは、今夜考えさせない方がよい。
「明日は何もしなくていいわ」
彼が話し終わる前に、そう言った。
エランは顔を上げた。
「何もしないと決めたいわけじゃないんだ」
「でも疲れているでしょう」
「そうだよ」
彼は少し笑った。
「疲れていることを、聞いてほしかった」
エリゼーは、自分が悪いことをしたように感じた。
相手のためを思って言ったのだから、そう受け取られるのは心外でもあった。
その二つの気持ちが、同時に起きた。
「聞いているわ」
「うん」
エランはうなずいた。
だが、そのあと少し言葉を探している様子があった。
「解決してほしくて話したわけじゃないんだ」
彼女は返事をしなかった。
仕事では、迷ったときにすぐ書き直さないことを教えてきた。
相手の言葉についても、同じように待てばよいのに。
目の前に困っている人がいると、待つことが無責任に思えてしまう。
* * *
数日後、二人は家の整理をした。
棚の奥から、以前に使っていた小さな器が出てきた。
エランがそれを手に取り、陽へ透かしてみる。
縁に細い欠けがあった。
「まだ使えそうだ」
「危ないわ。捨てた方がいい」
彼女がそう言うと、エランは指先で欠けた場所をなぞった。
「これは、まだ置いておきたい」
「手を切るかもしれない」
「使わずに持っていてもいいだろう」
エリゼーは器を受け取り、布に包んだ。
捨てるつもりはなかった。
ただ、目につかない場所へ片づければ、彼が怪我をすることもないと思った。
エランは何も言わなかった。
翌日、器のことを尋ねられて、彼女は棚の場所を教えた。
「しまっておいたの」
「そう」
それだけだった。
けれども、彼が器を取り出すとき、ほんの少し迷ったように見えた。
エリゼーは、その迷いの意味を聞かなかった。
役に立つことをしたはずなのに、小さな行き違いが残った。
* * *
そんな出来事のあとも、暮らしがすぐに変わるわけではなかった。
エランは夕食の器を洗い、エリゼーは戸締まりを確かめる。
朝になれば、二人はまた同じ食卓についた。
笑うこともあったし、帰り道で見たものを話すこともあった。
けれども、何かを相談するときに、エランがほんの少し言葉を選ぶようになった気がした。
それが本当に変化なのか、エリゼー自身が気にしすぎているのかは分からなかった。
彼女は一度、尋ねようとした。
でも、問題があると決めてかかることも、また相手を追い詰めるのかもしれない。
問いを飲み込む。
話さない方がよいのか、聞いた方がよいのか。
その区別には、保管室のような決められた手順がなかった。
ある夕方、二人は並んで歩いた。
市場の人声が遠ざかると、靴音がよく聞こえた。
エランはしばらく黙っていたが、道の途中で足を止めた。
「君は、いつも早いね」
「歩くのが?」
「考えるのが」
責める声ではなかった。
「僕が困った顔をすると、すぐ助けようとしてくれる。それは嬉しい」
エリゼーは続きを待った。
「でも、僕が何をしたいか考える前に、答えが決まっていることがある」
夕方の風が二人の間を通った。
エリゼーは、何か言おうとした。
けれども、その言葉が正しいかどうかを説明することは、いま求められている答えではない気がした。
「そうだったのね」
ようやく、そう言った。
エランはうなずいた。
二人はまた歩き始めた。
肩が触れるほど近くにいる。
それでも、相手が何を見ているかは、言葉にしてもらわなければ分からない。
彼女は、知っていたはずのことを初めて聞いたように思った。
このときの小さな行き違いが、のちの別離の原因だったと決めることはできない。
人と人の間には、一つの出来事だけで言い表せない年月がある。
ただ、守りたいと願うことの中に、ときとして相手の選択を先回りしてしまう危うさが含まれる。
その輪郭が、夕方の道で一度だけ見えた。
エリゼーは忘れないつもりだった。
忘れずにいることと、変われることもまた、同じではないと知らずに。
エランを傷つけた決定的な過去の判断は、まだ明かしていません。ここでは二人が互いを大切に思うなかで生まれる、小さな行き違いを描いています。




