第一部 灰の記憶 2 報告書の余白
二枚の報告書に残された、ごく小さな違い。
その隙間を読むことが、彼女の仕事に追加された。
雨は夜半に上がったらしい。
朝の光はまだ薄く、窓の石枠には水の筋だけが残っていた。
エリゼーは昨日受け取った二通の報告書を左に置き、自分で書いた照会用の覚え書きを右に置いた。
よく見えるようにするためではない。
同じものを、同じ順番で確かめるためだった。
異変を確認した者は誰か。
昨日、最後に書きつけた問いを読み返す。
第一の報告
カール・ライスターが執務の場で祈りを行い、期待された現象が起こらなかった事を伝えていた。
第二の報告
その場から届いた知らせを受けて、関係者が確認を行った。
一方は事の初めの出来事を述べている。
もう一方は報告を受けた者が観察しその経過を述べている
視点が違うなら記述が違っても不思議ではない。
問題は、どちらにも使われている
「その後」という短い言葉だった。
何の後なのか。
ライスターへの命令の後なのか。
彼の祈りの後なのか。
報告を受け取った後なのか。
窓の外では、濡れた敷石を洗う音がしていた。
の足音が遠ざかり、別の靴音が廊下を通り過ぎる。
それぞれの仕事に向かう者たちは、昨日と変わらない朝を過ごしている。
高位の聖職者が力を失ったという知らせも、ここではまだ、彼女の机にしか届いていなかった。
何も知らない人々が普段通り働くことを、彼女はありがたいと感じていた。
同時に、知らされていないということで、その日常を守れるのだろうかとも思った。
彼女は右側の紙に三つの可能性を書き並べた。
その一つずつの横の紙に、いま確かめられること、確かめられないことを記す。
自分で書いた文字が整然としているほど、その下に残る空白が目についた。
戸口で、若い書記が控えめに咳をした。
「昨日の封書は、こちらへ収めますか」
エリゼーは顔を上げた。
「受領簿には記したわ。まだ閲覧の手続きを終えていないから、今は指定された場所に置いておいて」
「写しを作る必要は」
「その判断は、私ではない」
書記は頷いた。
悪気のない問いだった。
そうは言ったけれども、自分がどこまでで、どこからが別の者の権限なのかを、曖昧にしておくわけにはいかなかった。
書類が一枚追加され増えるだけで、同じ出来事についての説明は、別の姿を持つことがある。
書記が去ると、彼女は報告の末尾に並んだ名へ目を落とした。
作成者、受領者、伝達者。
印の位置は規則通りだった。
その人々が本当に何を見聞きしたのかは、印だけでは分からない。
長年使い込まれて縁が少し欠けた茶呑みが、机の隅で冷えていた。
彼女は手を伸ばしかけて止めた。
報告書の同じ一行を読んだまま、何度も自分の考えを追い返していたからだ。
もし高位聖職者が自分の力を失ったのなら、その人自身は何を感じたのだろう。
恐怖か、困惑か。
それとも、最初は一度だけ祈りが届かなかったと思っただけなのか。
その場にいたとしても、どの感情も記録に書くことはできない。
上層にいる人物の名前の周囲には、いつも距離があった。
誰もが敬意を払い、誤った扱いをしないよう気を配る。
その慎重さが必要であることも彼女は知っていた。
しかし、慎重さと沈黙の境がどこにあるのか、紙の上には線が引かれていない。
彼女は一度立ち上がり、日々を繋ぐ受領記録を棚から取り出した。
届けられた時刻を確かめたい。
並べられているのは内容からではなく、書が人から人へ移った順番に従っている。
それでも、順番の途中には分からない時間があった。
「分からない、と書けばいい」
自分の声が、何もない室内で思いのほか大きく響いた。
かつて彼女は、分からないままにしておくことを怠慢だと思っていた。
幼いころ、どうして祈っても、助けが来ないのかが分からなかった。
大人になってからは、なぜ善いと思ってしたことが人を傷つけるのか、分からなくなった。
分からないことがあれば、何かを探し出して埋めなければならない。
そう考えてきた。
だが記録の仕事では、空白を自分の望む言葉で埋めることが、取り返しのつかない間違いになる。
休憩を告げる鐘が鳴った。
小さな鐘は、昼食を知らせる。
遠い聖堂の大ぶりな鐘は、祈りの時間を告げる。
同じ鐘の音でも、それを待っている人によって意味が違った。
エリゼーは鉛色の空を見上げてから、照会するために提出する書類の冒頭を書き始めた。
疑いではなく、質問として。
命令の是非を問う文章でも、誰かの責任を決める文章でもなく
記述の対象となった時刻の間隔、その意味を確かめるために。
書き終えると、しばらく手を置いた。
提出するかどうかは、これから定められた手順を踏まねばならない。
その一段を飛ばしたくなる心に、彼女は気づいていた。
夕方、窓の外の水のしたたりも乾いていた。
報告書の余白は、朝と同じ白さを保っている。
それでもその白い場所に、昨日まではなかった問いが一つだけ、確かに生まれていた。
異なる報告は、ただちに虚偽を意味するわけではありません。
まだ結論の出ない問いを、彼女は記録から切り離さずに扱おうとします。




