第一部 灰の記憶 3 同じ言葉、違う結果
祈り、その行為は誰にでも許される。
けれども、同じ祈りが同じ結果をもたらすとは限らない。
昼を過ぎると、教会の中庭に陽が差していた。
石の継ぎ目に残っていた雨水が細い光を拾い、歩く人の影を短く映した。
エリゼーは保管室の鍵を預ける手続きを終え、庭を横切った。
昼食を取るつもりだったのに、いつしか小さな礼拝所の前で足を止めていた。
扉は開いている。
中から、祈りの声が途切れ途切れに聞こえた。
「エゴ・ウォロ・ウト・エンテラフィアス・カロレム・フイク・コルポリ・プラエベアト」
一人の祈り手が、年老いた人の手を温めていた。
椅子に腰かけた老人は、指を曲げたり開いたりしている。
祈り手は相手の手の上へ掌をかざし、聞き慣れた節回しで短い言葉を唱えた。
すぐには、何も起こらなかった。
二度目の祈りの後、老人はうっすらと目を開けた。
「温かいね」
祈り手の表情が緩む。
老人は掌を自分の頬へ寄せ、子どものように少し笑った。
礼拝所にいた人々は、歓声を上げなかった。
誰かが深く頷き、別の誰かが椅子を寄せた。
それだけだった。
エリゼーは入口の陰に立ったまま、その小さな変化を見ていた。
熱が生まれたのだろう。
老人の手に触れなくても、指が動きやすくなったのは分かった。
奇跡と呼ぶにはあまりに日常に近く、日常と言うには説明のつかない出来事だった。
祈り手は老人に、無理に働かないよう言った。
「ずっと温かいわけではありませんから」
祈り手が使った言葉は、エリゼーもよく知っていた。
しかし同じ言葉を知っていることが、同じ働きが出来ることを意味しない。
この違いを話すとき、人々はときに祝福と言い、ときに授けられた役目と言った。
彼女はそのどちらの表現にも耳を傾けてきた。
けれども、誰がその役目を選んだのかと問うと、答えはいつも神の名へ戻っていった。
老人は心得た様子で頷いた。
「それでも、いまは助かる」
二人の会話を聞いて、エリゼーは奇妙な安堵を覚えた。
祈りが効いたことより、効き目に終わりがあると互いに知っていることが嬉しかったのかもしれない。
神の働きを語る者でも、寒さそのものが世の中からなくなったとは言わない。
礼拝所から人が出ていくころ、彼女は空いた椅子へ腰を下ろした。
机も文書もない場所に一人で座ると、両手をどこへ置けばよいのか分からなくなる。
仕方なく膝の上で重ねた。
祈りの言葉は知っている。
長い年月、書き留め、口にし、聞き違えた人の音を確かめてきた。
他人より正確に言える部分もある。
子どものころ、隣の者と同じ音を出せるまで祈りの節を繰り返したことがある。
先生役の大人に褒められると嬉しかった。
自分にもいつか、冷えた手を温めたり、病んだ人の苦しみを軽くしたりできるのだと思った
。
年月が過ぎ、その期待が叶わないと知ってからも、覚えた節回しは消えなかった。
祈りの音は身体に残っていた。
魔法だけが残らなかった。
彼女は唇だけを動かした。
教わった通り、言葉の順を変えずに唱える。
手のひらに少しでも熱が生まれることを望んだのは、昔からの癖だった。
何も起こらない。
窓から風が入り、袖口を抜けた。
先ほど老人が見せた笑顔が、まだまぶたの裏に残っている。
自分の祈りは、同じ音を持ちながら、ただの声として消えていく。
子どものころは、それを恥ずかしいと感じた。
若いころは、努力が足りないのだと思った。
今は、そのどちらとも言い切れなかった。
正しさと結果の間に何かがあっても、彼女はその理由を知らない。
足音がした。
先ほどの祈り手が水差しを持って戻ってきたのだ。
「何か、お困りですか」
「いいえ。ただ、少し休ませてもらっています」
「そうですか」
祈り手は無理に話しかけず、傍らの窓を少し閉めて出ていった。
彼女が魔法を使えないことを知っているのかどうか、それさえ分からなかった。
そうして思い返すと、老人の手を温めたのは祈りだけではなかった。
椅子を動かした者がいて、水を用意した者がいる。
温かさが去った後も、誰かはそこに残る。
それでも、あの一瞬、目に見えない何かが確かに手へ届いた。
その事実を、ただ人の親切へ置き換えてしまうことはできない。
神がいるから、祈りに答えがあるのか。
祈りに答えがあるから、人は神を信じるのか。
同じ問いの二つの形を、彼女は心の中で並べた。
どちらにも決定的な答えはなかった。
礼拝所の奥から、若い人が一人出てきた。
長椅子の下へ落ちた布を拾い、誰もいない席を整えている。
エリゼーは、手を温めてもらった老人のために誰がその椅子を用意したのかを考えた。
仕事の終わりに立ち寄る人もいれば、誰かに付き添われて来る人もいるだろう。
ここへ来る理由は人それぞれなのに、同じ場所に座る。
神がそれぞれの願いをどのように受け取るのか、答えられる者はいない。
けれども、互いのために場所を空けることなら、誰にもできる。
立ち上がろうとしたとき、自分の指先が冷えていることに気づいた。
窓は閉められている。
それでも彼女は、その冷たさを確かめるように、しばらく掌を見つめていた。
主人公が魔法を起こせないことは、祈りを知らないという意味ではありません。
その違いを、身近な出来事から描きました。




