第一部 灰の記憶 1 祈りの届かない者
この物語は、魔法を使えない一人の記録保管人が、神に祈る人々の世界を歩くまでの記録です。
祈りは、誰の口からも生まれる。
だが、そのすべてが世界を動かすわけではない。
ある者が唱えれば、冷えた石に熱が宿る。
別の者が同じ言葉を繰り返しても、石は冷たいままだ。
その違いを人々は神の御心と呼び、説明を求めることは、しばしば祈りの足りなさと受け取られた。
エリゼー・ロタストは48歳の教会記録保管人だった。
長年、祈りの報告を読み、誤字を直し、失われそうな名を拾い上げてきた。
それでも自分の祈りで何かを変えられたことは一度もない。
幼い日、敵と呼ばれていた人の手で命を救われたことが、彼女を教会へ導いた。
その人物は神の慈悲を教え、やがて戦場へ戻って消息を絶った。
今も彼女はその手の温かさだけを、何より確かに覚えている。
ある日、教会の上層にいる聖職者、カール・ライスターが突然魔法を失ったという報告が届く。
その人物は直前に敵対する共同体への攻撃を命じたとされていた
。報告の時刻には小さな食い違いがある。
記録を守ることを仕事にしてきた彼女は、その違いを読み過ごせなかった。
神が沈黙したのか、人間の言葉が何かを隠しているのか。
答えのない問いは、まだ一枚の紙の上にしか見えなかった。
* * *
記録保管室には、雨の日だけ響く音があった。
窓枠を伝う雫が滴り、石の縁で細く垂れ、そして弾ける音。
棚の奥で、湿り気を吸った革表紙がわずかにきしむ音。
紙を一枚ずつ返すときにだけ聞こえる、指に伝わってくる擦過音。
エリゼーは三つ目の音を好んでいた。
紙が音を立てる限り、そこにはまだ誰かの手が届く。
そう考えるのは感傷だと分かっていても、その感傷なしには続けられない仕事だった。
扉の向こうで誰かの足が止まった。
来訪者が差し出した書類には、通常の保管依頼に添えられるものとは違う印があった。
彼女はまず印を確かめ、受領した時刻を書き留めた。
封を切るより先に、どこから来て、いつ誰の手を通ったかを残す。
それが規則であり、彼女自身が必要だと信じていることでもあった。
「お返事は必要ですか」
「いえ。まず、受け取ったという記載だけを」
「承知しました」
机の端へ書類を寄せ、刃を封蝋の縁へ差し入れる。
中には、同じ出来事について書かれた二つの文書があった。
一方は出来事の経過を簡潔に伝え、もう一方は報告が上へ伝わった順序を記している。
どちらも、読まれることを前提にした整った文章だった。
高位の聖職者が、魔法を発現させられなくなった。
その一文を読んだとき、エリゼーは手を止めた。
使えない、という言葉なら、生まれたときから自分の身に属している。
だが、使えていた者からその力が失われるという話は、彼女の知る日常からは遠かった。
目を閉じれば、古い記憶の中から冷たい手が現れる。
まだ少女だった彼女は、教えられた通りの言葉を祈りとして口にし、何も起こらないまま、誰かの助けを待った。
救いに来たのは、自分たちが敵と呼んでいた側の人間だった。
あのとき何が人を動かしたのだろう。神だったのか。その人自身だったのか。
二つの文書を並べる。
命令が出されたこと。
魔法の喪失が報告されたこと。
その二つの出来事の並び方は、おおむね一致していた。
けれども、どの時点で異変が確認されたのかという記述が、最後までぴたりと重ならなかった。
彼女は行を追い直した。
紙を裏返し、文書の作成者と転送の印を確かめ、もう一度もとの行へ戻る。
間違いかもしれない。
伝達の途中で言葉が縮められたのかもしれない。
時刻を書き写す際の単純な取り違えもあり得る。
あり得ることを、一つずつ書き出す。
その中に、まだ書いてはならないことがあるのも分かっていた。
彼女は以前、奇跡が起きたとされる時期と、その後に生じた災いの記録の間に、説明しきれない順序のずれを見つけていた。
奇跡の記録だけを眺めていたのであれば気づかままだ。
川の水位や避難した人々、病んだ人々の数を記した、別の棚の書類と並べて初めて現れるずれだった。
それが何を意味するのか、彼女にも分からない。
分からないものを、誰かの罪として語ってはならない。
けれども、分からないという理由だけで、記録から消してよいはずもなかった。
雨が窓に強く当たった。
彼女は書類の片隅に自分の考えを書き込もうとし、筆先を止めた。
原本には手を加えない。
慣れた仕事の最も単純な決まりを、今さら守り直さなければならないほど、心が乱れていたのだと気づく。
別の紙を取り出す。
そこへ、二つの文書の違いだけを書き留める。
誰かの意図については何も書かない。
人の言葉は、出来事をそのまま閉じ込めておける器ではない。
それでも彼女は、残された言葉に頼るしかなかった。
ふと、家で待つ恋人、ハインツ・ホリガーのことを考えた。
今朝、外へ出るときに交わした短い言葉。
その声音の穏やかさを思い出すと、胸のどこかに温かな場所が残っていると分かる。
だが、その温かさの傍らには、かつて自分の判断で傷つけたエラン・ロタストへの悔いもあった。
二つは互いを打ち消さず、同じ身体の中にあった。
守るつもりで決めたことが、相手の望んだこととは限らない。
エリゼーは書き留めた紙を伏せた。
机の上には二つの報告が残っている。
神についての答えはない。人間についての答えも、まだない。
それでも、二つの文書の間にある、わずかな隙間だけは確かだった。
彼女は新しい紙の上部に、判断ではなく問いを書いた。
――最初に異変を確かめたのは、誰か。
その字を乾かす間、彼女は初めて、雨の音を聞き損ねていたことに気づいた。
記録に残された言葉は、必ずしも出来事のすべてではありません。
第一部では、その隙間から彼女の過去と現在をたどります。
改定
登場人物の命名




