第五部「交易都市編」第五幕「港、決断、出航前の乗船」 196 船長の時間
船長であっても、ひとりで決めないことがある。
アドリアン・フェルマは、机の上の紙を一枚ずつ伏せた。
一日の仕事が終わったわけではない。
ただ、今から聞く話に、別の取引の数字が入り込まないようにしたかった。
アルシオン号の船長と呼ばれて久しい。
船が海へ出れば、何かが起きたとき最初に判断を求められるのは自分だ。
しかし港では、彼の名の上にも横にも、ほかの名がある。
船を共同で運営する人々、貨物を託した者、仕事を組んだ乗組員たち。
誰かが一人で望んだとしても船が出るわけではない。
そのことを旅客へ伝えるたび、船長という呼び名がかえって説明を難しくする。
クララが四人を案内してきた。
ヘルマンは最初に礼を述べ
エリゼーは少し離れて立ち
ハインツは無理のない位置に腕を収めていた。
ジュリアは紙を持っていたが、まだ開いていなかった。
アドリアンは椅子を勧め、四人が腰を下ろすのを待った。
「照会は受け取っています」
彼は言った。
「船が皆さんを旅客として迎えられるかは、なお確認が必要です。今日は、その判断の範囲をお話しします」
ヘルマンは頷いた。
「船長の判断で決められることは、どこまでですか」
問いが真っすぐに来たので、アドリアンは少しほっとした。
最初にそこを聞く人は案外少ない。
「船を安全に動かすための判断には、私が責任を持ちます。天候や現場の状況を見て、進むべきでないと思えば進ませません」
「では、旅客の受入れも?」
「そこは別です。船が引き受けている商業上の約束や共同運営の取り決めと関わる事です。私一人が言ったからといって、全部に行き渡り、成立するわけではありません」
ハインツが小さく息を吐いた。
「誰に聞けば、最後まで分かるんでしょう」
「分からないまま一人で抱えず、クララに問いを残してください。必要なところへ回します。返事に時間がかかることもあります」
アドリアンは言った。
自分がその場で答えられないことを話すのは、職務の弱さを見せるようで気が重かった。
けれど、答えられるふりをするほうが船長の役目を超えている。
窓の向こうで、声が上がった。
荷を動かす順番が違ったらしい。
アドリアンは一瞬そちらへ目をやったが、席を立たなかった。
対応すべき者がいることを信じ、必要なら呼ばれる。
それも責任の一部だった。
「出航が遅れたら、私たちは何を求められますか」
ジュリアが尋ねた。
「まず、約束していないことを約束していたと思わないことです」
言ってから、アドリアンは自分の言葉が冷たすぎたと感じた。
「遅れを軽く見ているわけではありません。
暮らしの予定が変わる重さは承知しています。
ただ、運航の予定は確定した未来ではない。
その違いは、最初にお話ししておきたい」
エリゼーはしばらく沈黙していた。
「説明の中に、知らないままでいられることはありますか」
奇妙な問いにも聞こえた。
「安全と契約に必要なことは知っていただきたい。
それ以外の事情を無理に聞き出すつもりはありません」
アドリアンが答えると、彼女は表情を動かさずに頷いた。
話し終えて四人が去ったあと、クララは控えを机に置いた。
「皆さん、まだ決めていませんね」
「こちらもだ」
アドリアンは答えた。
彼女は笑わなかった。
互いの未決定を同じ紙に書けるかのような錯覚を、二人とも知っていた。
アドリアンには、船の上で迷わず指示を出した日の記憶があった。
危険を避けるための短い命令は、後から説明できても、その瞬間に討論する余裕はない。
それとは反対に、港での小さな確認を急いで押し通したため、後日何度も説明をやり直したこともあった。
速く決めることと、責任を果たすことは一致しない。
船長を万能だと思う者がいるとき、彼は自分がその期待に少し酔うのを感じる。
周囲の人の働きへ判断を返すほうが難しい日さえある。
クララの控えを見て、個別の問いが残っていることに彼は安堵した。
これは決定を遅らせるための紙ではなく、間違った決定へ急がないための紙だ。
再び紙束を開きながら、彼は自分の手を見た。
航海中の危険には、迷う時間を十分もらえないことがある。
だから港にいる間は、迷えることについては充分に迷わなければならない。
人を乗せるという判断も、その一つだ。
船長であることは、すべてを決められることではない。
何を自分だけでは決めないのかを知っていることでもある。
アドリアンの航行安全責任と、共同運営による商業判断の境界を描きました。旅客の受入れは依然未確定です。




