第五部「交易都市編」第四幕「四人の距離とそれぞれの選択」 190 まだ岸にいる夜
旅立ちを望む人にも、まだ何も変わらない夜がある。
待つ時間を埋め尽くすことが、準備とは限らない。
ヘルマンは旅舎の部屋で、荷の紐を解いては結び直していた。
まだ船側から返事はない。
それでも人は荷をまとめ始める。
明日出ると決めたわけでもないのに、何を持っていくかを考えると、今夜の部屋が少し狭く感じられた。
持っていくものは増やせば増やすほど、ここへ残していくものの姿をはっきりさせる。
地図を広げると、港の方角へ引いた線が目に入った。
その先にはまだ余白がある。
余白を埋めたくなり、ヘルマンは筆を取った。
次の町、その次の港、海を渡った先の道。
書こうと思えばいくらでも書ける。
けれどその名前を書いた途端、知らない土地がすでに自分たちの行き先になってしまう。
彼は筆を戻した。
知らないままで持っていく地図があってもよい。
戸を叩く音がして、ハインツが顔を出した。
「手伝うことはあるか」
「いまのところ、ないよ」
「なら、見ていていいか」
妙な頼みだった。
ヘルマンが頷くと、ハインツは窓際の椅子に腰掛けた。
荷を結ぶ手元を見るでもなく、外から聞こえる車輪の音を聞いている。
しばらくして、彼は言った。
「右腕が使いにくいと、皆に手伝ってほしくないって思う。でも、手伝うことまで断られると、こんなに手持ちぶさたになるんだな」
ヘルマンは紐を置いて笑った。
「じゃあ、そこに置いた紙が飛ばないよう押さえていてくれる?」
ハインツは左手で地図を押さえた。
その仕事が本当に必要かどうか、二人とも確かめなかった。
風が弱い今夜、紙はきっと飛ばない。
けれど、誰かと同じ部屋にいる理由としては、それで十分だった。
階下ではジュリアの声がした。
紙を届けたときのやりとりを、エリゼーに説明しているらしい。
確かな返事がないことを、何度目かに言い直していた。
ヘルマンは、彼女が不安だから繰り返すのだろうかと考えた。
しかしすぐに思い直す。
繰り返すことで、自分たちに何も約束されていないと確かめているのかもしれない。
その違いは、彼女に聞かなければ分からない。
「食堂に降りてみる?」とハインツ。
「うん。でも、もう少しここを片づけてから」
「片づけすぎじゃないか」
「そうかもしれない」
ヘルマンは地図を畳み、今日使った紙だけを別に置いた。
残りの荷には手をつけない。
どこへ行くか決まっていないのに、旅の終わりまで使うものを選ぶことはできなかった。
食堂に降りると、ジュリアが薄い紙片を前にしていた。
エリゼーはその横で、水を温めてもらっている。
「返事の予定は聞けた?」とヘルマンが尋ねた。
「まだです」とジュリア。
「窓口の人も、船側の都合を全部知っているわけではないでしょうから」
「確かめに行ったの?」
「いいえ。今日のところは、行っていません」
彼女は少し笑った。
「毎日尋ねれば早くなるとは限らないので」
エリゼーがお茶を四人の杯へ分けた。
「私たちは、待つことが下手なのかもしれないわね」
「君も?」とハインツ。
「ええ。何もできないときほど、できることを探したくなる」
「それは悪いことじゃない」とヘルマン。
「でも、ほかの人の返事まで急がせる理由にはならないわ」
エリゼーは杯を置いた。
その言葉を聞き、ジュリアは昼間に自分が書いた短い一行を思い出した。
四人は同行を望む。
それ以上のことは、まだ誰にも書けない。
窓の外では、荷車が一台だけ通り過ぎた。
荷の下から鎖の音がして、石畳を長く響いた。
港では今も、人が働いているのだろう。
自分たちの照会文が誰の手元にあるか、ヘルマンには分からない。
その人がほかの仕事を終えるのを待たなければならないのかもしれない。
誰かが答えを出すまでの時間にも、その人の暮らしがある。
街のどこかで誰かを待つ人の顔を、ヘルマンは知らなかったが、待つことを旅人だけのものにしたくないと思った。
「明日、港へ行く?」とハインツが尋ねた。
ヘルマンは「様子を見てからかな」と答えた。
「船の返事が来たら、話を聞きに行こう。でも、来なくても、明日の朝に考えればいい」
「珍しいね、君が道を決めないなんて」
「道は知ってるよ」
ヘルマンは少し笑った。
「知ってる道を、いつ歩くかは別だ」
夜が深くなると、四人はそれぞれの部屋へ戻った。
ジュリアは今日の紙を折らずにしまい、エリゼーは途中まで読んだ本を閉じた。
ハインツは左手で杯を戸棚に戻し、右腕の具合を確かめた。
ヘルマンは紐を緩く結んだ荷を床の隅へ置いた。
四人の動作には、誰かへ見せるための決意はなかった。
誰かが一緒に眠れない夜を過ごしているとしても、それを互いに知らない。
旅の仲間であるということは、夜まで共有することではないのだ。
灯りを消す直前、ヘルマンはもう一度地図を見た。
余白はそのままだった。
もし船側から返事が来れば、明日は港へ行くことになるかもしれない。
返事が来なければ、別の用事をするだろう。
どちらでも、今夜の四人はまだ岸にいる。
その当たり前のことを、彼は初めて気楽に思えた。
壁の向こうで誰かが窓を閉める音がした。
街は明日も、彼らより先に目覚めるだろう。
ヘルマンは地図を畳み、余白を閉じ込めるのではなく、大切なものとして荷の上へ置いた。
待っている間にも、人は自分の暮らしを生きている。
そのことを忘れずに、次の朝を迎えたいと思った。




