第五部「交易都市編」第四幕「四人の距離とそれぞれの選択」 183 古い声の距離
忘れたつもりの声は、別の人の言葉の中で不意に響く。
似ているからといって、同じ声とは限らない。
朝の食堂で、エリゼーは自分の杯を置く音に驚いた。
ほんの少し強く置いただけだった。
向かいの席でハインツが顔を上げる。
「何かあった?」
「いいえ」
答えながら、その言い方を聞き直したくなった。
何かあったと尋ねられたことが、責められたように聞こえたのだ。
彼の声には、責める響きはなかった。
昔、エランもよくそう言った。
同じ短い問いを
片づかない部屋で
夕食のあとで
エリゼーが長い説明を終えた直後に。
いつからその言葉を嫌うようになったのだろう。
初めてのころは、気にかけてもらったと思っていた。
後には、自分が何かを間違えたことを指摘するための入口に聞こえた。
思い出の声色は、今ではどちらにも変わる。
変えられるのが自分の記憶なら、あの人の本当の声はどこへ行ったのか。
ハインツは杯を取った。
「なら、いい」
そう言って食事の続きを始めた。
問いを引きずられないことに安心しながら、エリゼーは奇妙な寂しさを覚えた。
聞いてほしかったのかもしれない。
しかし、何を聞いてほしかったのか、今も自分に分からない。
旅舎の階段を下りるとき、ジュリアとすれ違った。
彼女は手に紙を持ち、急ぎながらも挨拶をした。
エリゼーはその紙の端を見て、昨日の続きだろうと考えた。
「何か手伝いましょうか」と言いかけたが、やめた。
先日の話し合いで、彼女が求める前に仕事へ口を出すことが、優しさになるとは限らないと知ったばかりだった。
沈黙は、遠慮にも見捨てることにも似ている。
自分がどちらをしているかさえ、曖昧だった。
外へ出ると、露店が布を広げていた。
青い布の端に小さな繕い目がある。
エランは、こういう繕い目を見つけると褒めることもあった。
物を長く使うことを好んだ。
その一方で、エリゼーが人の話に時間を使うと、なぜそこまでしなければならないのかと尋ねた。
思い出の中で彼を悪い人にしてしまえば、いま苦しくはないかもしれない。
良いところだけ拾ってしまえば、離れた理由が見えなくなる。
どちらも、自分に都合のよい記録の作り方だった。
「それ、丈夫ですよ」
布を手に取っていたつもりもないのに、店の人が言った。
エリゼーは手を引いた。
「見ていただけなの」
「見るだけでもいいんです」
相手は自然な調子で答えた。
見るだけでよいと言われ、今度は買わなければ悪い気がする。
自分の中の面倒な律儀さに苦笑した。
路地を抜けると、ヘルマンが道の端で立ち止まっていた。
昨日確かめた港への道とは違う方角を眺めている。
「迷ったの?」
「いや。地図にない通りを見ていた」
「歩いて確かめたいのかしら」
「今日は見ておくだけでいい」
彼は地図を広げなかった。
地図にないものを、すぐ記録しようとしない日もあるのだ。
エリゼーは立ち話をしながら、エランならこの返事をどう受け取ったかと考えた。
答えが出そうになって、考えるのをやめた。
目の前にいるのはヘルマンで、ここにいない人の判断で彼の言葉を測る必要はない。
その区別をするのに、こんなに手間がかかるとは思わなかった。
旅舎へ戻ると、ハインツが窓辺にいた。
彼は右腕の袖を片手で直し、エリゼーを見た。
「さっきのこと、気になってた?」
エリゼーは即座に否定したくなった。
その方が、相手の一日を軽くできる。
けれど、彼が後から聞き直したことを、余計な心配だとも言いたくなかった。
「少しね」と答えた。
「俺、何かした?」
「いいえ。あなたは、何も」
言い終える前に、彼が眉を寄せた。
何もしていない相手へ、理由の分からない不安を渡してしまう。
「昔の言い方を思い出しただけなの」とエリゼーは続けた。
「君の昔の?」
「ええ。でも、それはあなたの責任じゃない」
ハインツは返事を選んでいるようだった。
「責任じゃないことでも、聞いていいだろう」
その言葉が少し痛かった。
彼の優しさまで、古い声の反対側へ置こうとしていた自分に気づいたからだ。
「聞いてもらうなら、今起きたこととして話したい」
エリゼーは言った。
「昔の人の代わりに、あなたから返事を取らないように」
「それ、難しそうだね」
「難しいわ」
二人は笑わなかった。
難しいことを難しいまま言えたことで、会話が終わらずに済んだ。
夕方、エリゼーは窓際で手帳を開いた。
エランの名前も、ハインツの名前も書かなかった。
代わりに、今日聞いた店の人の言葉を小さく記す。
「見るだけでもいい」。
買わずに帰った布の色も、声の主の表情も、明日には少し変わって思い出されるだろう。
それでも今日、自分が何に驚いたかは覚えておきたかった。
古い声は消えない。
けれど新しい声を、その影の中へ閉じ込めるかどうかは、まだ自分で考えられる。
エランの言葉を一面的な悪意として再構成せず、記憶するエリゼーの揺れを中心にしました。
ハインツとの会話も、過去を代わりに解決するものにはしていません。




