第五部「交易都市編」第四幕「四人の距離とそれぞれの選択」 181 待つ人の背中
待つことは、立ち止まることと同じだろうか。
ある人を待ちながら、別の一日を生きることもできる。
エレナ・ラスクが仕事を始めたとき、街路に落ちる建物の影はまだ長かった。
戸口に近い卓を拭き、預かった紙束を順に揃えて、昨日の続きを確かめる。
待ち合わせの場所にいる人のように見られるのは、いつものことだった。
ときどき顔を上げて道を見ているからだ。
しかし、誰を待つのか尋ねる人は少ない。
エレナ自身も、その少なさをありがたいと思う日と、ひどく寂しく思う日があった。
向かいの店の女が籠を抱えて出てきた。
「今日は先に休まないの」
「もう少しここを片づけるわ」
「待っているうちに夕方になるよ」
女はそれ以上言わず、籠の重みを腕の中で持ち直した。
エレナは背中を見送る。
『待っているうちに』という言葉だけが、その場に取り残された気がした。
仕事をしていても、食べていても、誰かを待っていると見なされる。
自分の時間が、まだ来ない誰かの持ち物になったように感じるのだった。
紙束の端が一枚だけ曲がっていた。
エレナは指で伸ばしたが、すぐ元に戻る。
無理に直せば破れると知っているから、ほかの紙に挟んでおいた。
知らない人が見れば、怠けていると思うかもしれない。
だが、今日はそれより急ぐべきことがあった。
紙を数え、足りない一枚の所在を調べる。
道を眺めるために手を止めたくなり、何度か目を伏せ直した。
昼の鐘が鳴る少し前、少年が小さな包みを持ってきた。
「これ、ここへ置くように言われたんだ」
「誰から?」
少年が口を開きかけて、考える顔をした。
エレナは思わず身を乗り出す。
その勢いに少年が驚いたので、慌てて背を伸ばした。
「ごめんなさい。仕事の確認よ」
少年は説明できる分だけ説明して、包みを置いていった。
待っている相手からの知らせではなかった。
包みには、頼んであった小さな道具が入っていた。
受け取るべきものを受け取っただけなのに、胸の底に落胆が残った。
誰かに申し訳なくなる種類の落胆だった。
午後には風が変わった。
卓の上の軽い紙が動き、エレナは重しを載せる。
通りを歩く人たちはそれぞれ忙しそうだった。
船便を尋ねる声、納品先を聞く声、屋台の値を確かめる声。
誰もエレナの顔を知らずに通り過ぎる。
彼女もまた、彼らの行く先を知らない。
知らない人の目的まで気にしないことが、自分の目的を守ることに似ている気がした。
店先へ戻ってきた女が、水を一杯置いた。
「今日はもう来ないのかい」
その一言には、親切と探りが少しずつ混じっていた。
エレナは杯に手を伸ばしたが、すぐに飲まなかった。
「分からないわ」
「そう」
「でも、来ないからといって、今日やったことまで無かったことにはならないでしょう」
女は目を丸くした。
「そんなつもりで言ったんじゃないよ」
「ええ、分かっている」
分かっていると言ったあとで、本当にそうだろうかと考えた。
女は気にかけてくれている。
それでも、その気遣いは待つ人の顔ばかりを見ていた。
エレナは立って、片づけた紙を奥へ運んだ。
水を一口飲むと、思いのほか喉が渇いていた。
誰かが来るかどうかに関係なく、朝から声を出し、手を動かしていたのだ。
その疲れを感じられることに少し安心した。
自分にも、他人を待つ以外の理由で疲れる権利がある。
日が傾いたころ、一人の客が、書き損じた宛名を見せて道を尋ねた。
エレナは知っているところまで説明し、知らない角を知らないと答えた。
客は礼を言い、教わった方へ歩き出す。
見知らぬ誰かの背を、エレナはしばらく眺めた。
あの人を待っているわけではない。
それでも、その人が自分の行く場所へ辿り着けばいいと思えた。
仕事を終えると、エレナは戸口の外へ出た。
いつもなら最後にもう一度道の向こうを見る。
今日は足元に落ちていた細い紐を拾い、結び目をほどいた。
そして紐を手のひらで巻き、片づけた道具と一緒に持って帰る。
待つ人が帰ったと知っても、誰も不思議には思わないだろう。
明日も同じようにここへ来るかどうかは、明日の用事によって決める。
背中に誰かの視線を感じた。
振り向きかけ、やめた。
待っている相手の姿を見逃したくないという気持ちは、まだ消えない。
けれど、振り向かない時間にも、彼女の一日は続いていた。
その事実を失わずにいることの方が、今日は少し大事だった。
エレナの待ち人の身元や関係は明かしません。
待つことと生活を営むことを、相反しない二つの行為として描いた章です。




