第一部 灰の記憶 18 信じたい理由
信仰を持つことと、疑問を抱くこと。その二つが同じ人の中にある時間を描きます。
冬のはじめ、教会に一組の親子が訪ねてきた。
子どもの頬は赤く、母親は肩へ掛けた布を何度も直している。
診てもらう順番を待つあいだ、エリゼーは二人に座る場所を示した。
小さな子は椅子の高さに足が届かず、かかとを宙に浮かせていた。
母親は祈りの言葉を小さく繰り返していた。
どんな願いなのか、聞かなくても分かった。
治ってほしい。
それだけだった。
奥から出てきた教会の人は、子の様子を確かめ、必要な手当てを受けられる場所を案内した。
「神は見ておられます」
最後にそう言った。
母親はうなずいたが、顔は少しも明るくならなかった。
エリゼーは、その言葉を責めたいわけではなかった。
自分も苦しいとき、神が見ているのだと思いたかった。
ただ、いま必要なのは言葉だけではなく、温かな場所と、水と、子どもを支える腕なのではないかと思った。
* * *
親子が診察を終えて戻るまで、エリゼーは廊下の火を絶やさないようにした。
薪は湿っていて、細い煙が出る。
何度か、くべ直すとようやく火が落ち着いた。
帰ってきた子どもは、さっきより少し顔色がよかった。
大きな回復ではない。
ただ、母親の肩から、わずかに力が抜けていた。
「ありがとうございます」
そう言われ、エリゼーは返す言葉に迷った。
自分がしたことは火を守っただけで、診たわけでも、魔法を使ったわけでもない。
だが、その子が寒くない場所で休めたのなら、火を守ったことにも意味はあったはずだった。
「帰りは冷えます。布をもう一枚、持っていってください」
母親は布を受け取った。
そのとき子どもが、エリゼーの袖をつまんだ。
「また来ていい?」
「困ったら、来ていいのよ」
その答えが誰の権限に属するのか、口にしてから気になった。
エリゼーはすぐ、受付の人へ次に来る手順を確かめた。
善意だけで約束してよいことと、そうでないことがある。
少しずつ、その区別を覚え始めていた。
* * *
親子が帰ったあと、使った椅子の下に小さな糸切れが残っていた。
母親が布を直したときに落ちたものらしい。
エリゼーは拾って、ごみを入れる籠へ移した。
その程度のことで、その親子が明日どう暮らすかは変わらない。
それでも、椅子を次に使う人が座りやすいよう、少し位置を直した。
家族の誰かが病めば、世話をする側も疲れる。
今日の母親がそうであるように、明日の誰かもまた、ここへ来るかもしれない。
エリゼーは受付で、冬のあいだの手当ての時間を記した紙を受け取り、読みやすい場所へ貼るのを手伝った。
奇跡に頼らずできることは多い。
同時に、できることの少なさを思い知らされる日もあった。
夜の礼拝で、誰かが苦しみについて語った。
人の痛みは神から与えられる試練でもある、と。
その言葉を聞く人々の中には、うなずく人もいた。
エリゼーは顔を上げなかった。
幼い日に灰の道で倒れた自分へ、あの言葉を伝えたらどうなっただろう。
試練だと言われて、痛みが消えただろうか。
帰りたいと願う気持ちが、少しでも軽くなっただろうか。
エリゼーはその考えを声にしなかった。
祈りを支えに生きている人を傷つけたくなかったし、自分自身も神を信じることを捨てたくなかった。
ただ、苦しむ人の前で何もせず、その痛みを試練という言葉に包んでしまうなら、神を信じることが何を支えているのか、分からなくなる。
礼拝のあと、消えかけた灯火を整えていた人に、エリゼーは尋ねた。
「祈りが届かないと思うことはありますか」
相手は灯芯を少し引き上げた。
「あります」
「それでも、祈りますか」
「祈ることと、分かったつもりになることは、違うでしょう」
言葉は短かった。
エリゼーは、相手の顔を見た。
その人もすべてを知っているわけではない。
それが、かえってありがたかった。
灯火を整えていた人は、エリゼーが去る前に付け加えた。
「祈る人も、祈らない人も、寒いものは寒いですよ」
エリゼーは思わず笑った。
相手は、彼女が笑ったことを責めなかった。
「だから戸を閉める。火を絶やさない。それでも祈る」
神について語る言葉の中に、暮らしの音が混じっていた。
彼女はその響きが好きだった。
外に出ると、冬の風が通りを吹いていた。
石畳の隅には、昼間の雨が薄く残っている。
神はこの冷たさを知っているのだろうか。
知っているなら、なぜ人は寒いのだろう。
答えはなかった。
それでも彼女は、明日の朝になれば、また火を起こすつもりでいた。
信じたい気持ちは、疑いが消えた場所に生まれるとは限らない。
むしろ、疑いを抱いたまま、それでも人のそばにいたいと願うところに残るものなのかもしれなかった。
神への信頼は残り続けます。ただし、苦しみを言葉だけで片づけることへの違和感も失われません。




