第1部 灰の記憶 17 祈れない手
正しい言葉を知っていることと、魔法を起こせることは同じではありません。
教会で学び始めたころ、エリゼーは「祈り」の節を誰よりも丁寧に書き留めた。
長い文を覚えるのは苦ではなかった。
音の順序を聞き取り、間違えやすいところに小さな印を付ける。
口にすると、幼い日に家族と並んで唱えた言葉が喉の奥に戻ってきた。
ある日の祈祷の教習では、身体の安全を願う言葉を習った。
読み上げる役の人が、ゆっくりと音を区切った。
「エゴ・ウォロ・ウト・エンテラフィアス・セクリターテム・フイク・コルポリ・プラエベアト」
教習に来た人々は、それを繰り返した。
エリゼーも一度、続けて唱えた。
「もう一度、最後まで」
そう言われ、息の長さを整えて唱え直す。
指導者はエリゼーの音を聞き、首をかしげてから、うなずいた。
「正確ですね」
その言葉は嬉しかった。
昔、祈りの節を覚えて大人に褒められたときと同じ、胸の内側が少し明るくなる感じがした。
しかし、その日の教習でエリゼーに魔法は起こらなかった。
手のひらが熱くなることも、身体の周りに見える何かが現れることもない。
もともとその祈りが、どんな変化として確かめられるべきなのか、エリゼーには十分に分かっていなかった。
ただ、何度も教わり、祈り手としての力を持つ人々と同じように学んでも、自分にはその力がないということだけは、もう知っていた。
* * *
教習のあと、指導者はエリゼーに短い確認を求めた。
祈りの最初と最後を繰り返す。
言葉を区切る場所も、長く伸ばす音も、教わった通りだった。
「間違えたところは、ありますか」
エリゼーが尋ねると、指導者は首を振った。
「聞いた限りでは、ありません」
「では、どうして」
問いの続きを言えなかった。
指導者は急いで答えを与えなかった。
「言葉を守っても、力が授からない人はいます」
それはエリゼーも知っていた。
知っていることを、もう一度人の口から聞くのは、思っていたより苦しかった。
「あなたの祈りが軽い、という意味ではありません」
そう付け加えられても、胸の中の小さな痛みはすぐには消えなかった。
帰り道、エリゼーは石段に腰を下ろした。
膝の傷は何年も前に塞がっている。
それなのに、疲れると古い痛みを思い出すことがあった。
身を守りたいと願うことは、ずるいことだろうか。
誰かのために唱えた方が、神は聞いてくれるのだろうか。
そう考え始めると、胸の中が狭くなった。
けれども、子どもの頃にあの灰の道で祈ったとき、彼女は誰かを傷つけたいと願っていたわけではない。
ただ家へ帰りたかった。
それだけでは、足りなかったのだろうか。
礼拝堂の戸が開き、ほかの学び手たちが出てきた。
一人がエリゼーの隣に座った。
「どうしたの」
「うまく、できないの」
「言葉は間違っていなかったよ」
「言葉じゃないのかもしれない」
相手は少し黙り、やがてこう言った。
「私だって、何も起こせないよ」
エリゼーは顔を上げた。
隣の人は、そのことを恥じているようにも、誇っているようにも見えなかった。
「でも祈るのは、やめない」
「どうして」
「誰かが無事でいてほしいから」
それは、魔法を起こす方法の説明ではなかった。
それでもエリゼーは、ずっと問い続けていたことの一部が、少しだけ言葉になった気がした。
* * *
隣の人は、エリゼーが立ち上がるまで一緒に座っていた。
励ます言葉を探しているようには見えなかった。
遠くで鐘が鳴り、二人はその音を聞いた。
「いつか使えるようになると思う?」
エリゼーが尋ねると、相手は首をかしげた。
「分からない。分かると言ったら、嘘になる」
エリゼーは小さく笑った。
慰めより、その答えの方が信じられた。
教習室へ戻る前、彼女は手を洗った。
水は冷たかった。
指をこすり合わせても、そこに特別な力は生まれない。
水が流れ、肌の上を伝って落ちていく。
それだけだった。
教会では、祈りを声にするときに背筋を伸ばすように教えられる。
だが祈りのあとで誰かの荷を持つには、腰を曲げなければならない。
エリゼーは、礼拝堂の外に積まれた水桶を見た。
運び手が足りないらしく、通路の端に置きっぱなしになっている。
二つのうち一つを持ち上げると、腕にずしりと重さがかかった。
重さは軽くならなかった。
その確かさが、かえって胸を落ち着かせた。
魔法のない手にも、重さは分かる。
重いと分かるから、人に代わって持つこともできる。
彼女は息を整え、水桶を台所まで運んだ。
その晩、祈祷文を書いた紙をしまう前に、一度だけ声に出して唱えた。
何も起きなかった。
それでも、言葉を覚えたことまで無意味になったとは、思わなかった。
新しい祈祷文は音だけを記し、隠された構文の意味は明かしていません。エリゼーが魔法を使えない設定も変わりません。




