第一部 灰の記憶 16 紙に残る人
人を数えるための数字と、人を忘れないための名前
同じ紙の上にあっても、その役割は違います。
その日、エリゼーは救援所で使われた古い名簿を整理していた。
紙は薄く、折り目のところが白く毛羽立っている。
一枚の表には、日ごとに受け取った食料の数が記され、裏には、そこで休んだ人々の名が並んでいた。
「人数の計算だけなら、表で足りるでしょう」
年長の係が言った。
「でも裏を捨てないのは、どうしてですか」
「人数を知りたい人と、人を探したい人は違うからです」
係は束の端を軽く押さえた。
その言葉を聞いたエリゼーは、裏の文字をもう一度見た。
ある名の横には、小さく「弟と一緒」と書いてある。
その下には「歩くのが遅い」ともあった。
食料を配るだけなら不要に見える言葉だった。
しかし、人がどこへ向かったかをあとから探すなら、その言葉が役に立つのかもしれない。
* * *
午後、窓口へ一人の人が来た。
手には、何度も折り畳んだ紙がある。
「ここに、名を残してもらえたはずなんです」
紙には、同じ年の救援所で離れ離れになった家族の名が書かれていた。
相手は住所ではなく、当時使っていた呼び名を覚えていた。
正式な名前とは少し違うという。
エリゼーはすぐに名簿を開こうとして、手を止めた。
閲覧できる資料なのか、先に確かめなければならない。
年長の係に用件を伝えると、窓口へ出せる写しと、出せない原本の区別を教えられた。
「知っているからといって、何でも見せてよいわけではありません」
「でも、探している人がいるのに」
「だから、渡せる形を考えるのです」
二人は閲覧を許された写しから該当する時期を探した。
相手の指は、文字の上を行きつ戻りつした。
「あの人は、この字をいつも間違えていたんです」
一つの字を示した。
笑っているような、泣いているような顔だった。
名簿には似た名前があったが、同じ人物と断定できる手がかりはない。
エリゼーはそのことを伝えた。
「ここにいたかもしれません。でも、今のところは、そうとしか言えません」
相手はしばらく黙った。
「分かりました」
失望しただろうと思った。
それでも、相手は写しの所在を書いた紙を受け取り、丁寧に折りたたんだ。
「探せる場所が一つ増えました」
その言葉に、エリゼーは返事ができなかった。
答えを渡せなかったことを申し訳なく思っていたからだ。
だが、相手は答えだけを求めていたのではない。
その人が確かにどこかを歩き、誰かに呼ばれ、食事を受け取ったかもしれないという、わずかな跡を探しているのだった。
* * *
窓口へ来た人が帰ったあと、エリゼーはしばらく椅子に座っていた。
探しているのが自分だったら、どうしただろう。
似た名前があるだけで、安心できただろうか。
逆に、違う名前しかなければ、その人がいなかったと諦められるだろうか。
年長の係が机の上を片づけ始めた。
「何か、気になりましたか」
「正しい答えを渡せませんでした」
「答えがないときは、ないと言うしかありません」
「でも、あの方は、まだ探すつもりのようでした」
係はうなずいた。
「探すのは、あの人の人生だから」
その一言を聞いて、エリゼーは顔を上げた。
記録を扱う人間にできるのは、相手の代わりに諦めることではない。
探せる範囲を正確に伝えることだった。
日が傾くころ、エリゼーは名簿を戻しながら尋ねた。
「記録に残らなかった人は、どうなるのでしょう」
年長の係は、少し考えた。
「記録の上では、見えなくなります」
簡単な慰めはなかった。
「だから、いま目の前にいる人の名を、粗末にしないのです」
エリゼーは子どものころの道を思い出した。
あの日、自分を連れ帰った人は、どの名簿にもその名を残さなかったかもしれない。
いまその人を探したいと思っても、手がかりは言葉の響きと衣服の模様くらいしかない。
名前を聞かなかったことを悔やんだ。
けれども、あの日の自分には名前を尋ねる余裕などなかった。
それもまた、出来事の一部なのだ。
仕事を終える前に、彼女は名簿の紐が緩んでいないか確かめた。
紙の端にある「弟と一緒」の四文字が、何度も目に入った。
その弟がどんな顔をしていたのか、ここには書かれていない。
姉か兄がどんな声で呼んだのかも、分からない。
けれども誰かが、そこに二人がいたことを残そうとした。
その人のために、少なくとも今日は紙を守る。
彼女は紐を結び直し、次に開く人の指が困らないよう、結び目を表へ向けた。
記録には欠落があります。
欠落があるからこそ、残った言葉を急いで一つの答えに変えない慎重さを描きました。




