五部「交易都市編」第四幕「四人の距離とそれぞれの選択 177 返事のない過去
返事を求めなかった問いも、心の中で消えるとは限らない。
エリゼーは朝、窓辺に置かれた古い手帳を開き、何も書かれていない頁で手を止めた。
頁の端にだけ、小さな折り目がある。
いつ折ったのか覚えていない。
そのことが、自分の記憶の欠け方を教えている気がした。
エランと暮らしていた頃、彼は紙の角を折るのを嫌った。
そこに何か大切な記録が書かれているときほど、頁を痛めることを気にした。
エリゼーはその几帳面さを、昔は頼りにした。
後には、些細なことまで責められているように感じる日があった。
彼が変わったのか、自分が変わったのか。
二人で暮らした年月を、そのどちらかだけで説明することはできなかった。
旅舎の廊下で足音がした。
ハインツが誰かと短く話し、階段を下りる。
今ここにいる人の声が、昔の部屋へ届くことはない。
それなのにエリゼーは、一瞬、エランに今の暮らしを説明している自分を想像した。
彼が何と言うかまで考えかけて、やめた。
かつて彼女は、正しいと思うことを説明すれば相手にも伝わると信じた。
伝わらなかったとき、説明が足りないからだと思い、さらに言葉を重ねた。
祈りの意味、教会での働き、記録をどう読むべきか。
エランが黙ると、同意しているのか、疲れているのかを尋ねるより先に、自分が話す次の言葉を探した。
その顔を思い出すたび、彼にひどいことをしたと考える。
けれど、彼がいつも正しかったわけでもない。
そこを消してしまえば、反省は自分を痛めるための都合のよい物語になる。
エランは今どこで何をしているのだろう。
過去に転居を知ったときの気持ちが蘇る。
遠くなった、と安心した自分。
遠くなったことに傷ついた自分。
同じ日に二つの気持ちがあったのか、後から思い直したのか、今は区別できなかった。
階下へ降りると、ジュリアが食卓の端で紙を選り分けていた。
「今日は記録の続きですか」とエリゼーが聞いた。
「少しだけ。昨日話したことを、そのまま書き直さないようにしています」
エリゼーは頷き、向かいに座った。
相手の机を見ると自分の仕事の続きを教えたくなる。
それを抑えるため、何も言わずに湯を飲んだ。
「話したいことがあります?」
ジュリアが先に尋ねた。
「昔のことを考えていたの」
「記録について?」
「そうとも言えるし、違うとも言える」
エリゼーは笑った。
曖昧な答えを許してもらえることに、少し救われた。
「以前、一緒に暮らしていた人のことよ」
ジュリアは何も言わなかった。
エリゼーにはそれが意外だった。
慰めも質問も準備されていない顔を前にすると、自分で言葉を探すしかない。
「私は、あの人を傷つけたと思う。でも、いつから傷つけたのか、よく分からない」
「いつか分かれば、何か変わりますか」
その問いは冷たく聞こえた。
エリゼーは少し考えた。
「自分が納得したいだけかもしれない」
ジュリアは紙を揃えた。
「私が誰かの話を聞くときも、そういう気持ちになります。どこから間違ったか知りたい。でも、それを知りたいのが誰なのかを忘れる」
「あなたは、私に結論を求めないのね」
「求めたら、私が受け取っていい話になる気がするから」
エリゼーは胸の内で一歩下がった。
この人は自分より若い。
それでも自分が持たない言葉を持っている。
認めることと、任せきりになることの違いを考えた。
食卓の窓から、洗った布を運ぶ人が見えた。
布は乾けば畳まれる。
折り目が残っても、暮らしの中でまた広げられる。
エリゼーはそのありふれたことを、過去をやり直せるという約束に変えたくなった。
けれど人は布ではない。
一度暮らした時間を、違う順番で畳み直せない。
「会いに行きたいんですか」とジュリアがようやく尋ねた。
エリゼーは首を振った。
「分からない。でも、少なくとも今は連絡しない」
決意と言えるほど強い言葉ではなかった。
彼が望んでもいない返事を、自分のために取りに行くことへのためらいだった。
自室へ戻り、手帳の折り目を指で伸ばした。
紙は完全には平らにならない。
エリゼーはその頁に彼の名を書かなかった。
書かないからといって、忘れたわけではない。
忘れないからといって、まだ相手へ話しかける権利を持っているわけでもなかった。
窓の外で市場の鐘が鳴った。
彼女は今の一日の時間を確かめ、手帳を閉じた。
過去のどの瞬間からでも始められる物語を、自分だけの返事で終わらせないようにしたかった。
エランとの過去を回想しますが、連絡・再会・和解は起こしません。エリゼー自身の後悔も、相手の気持ちを代弁するものにはしない章です。




