五部「交易都市編」第四幕「四人の距離とそれぞれの選択 173 答えを奪わない
手を伸ばす前に、相手の返事を待つ。それは思うほど静かな行為ではなかった。
エリゼーは旅舎の机に置かれた小さな木箱を前に、しばらく立っていた。
留め金が少し浮いている。
中には修繕へ持っていく道具の控えが入っているはずで、朝のうちに片づけることになっていた。
ハインツは椅子に腰掛け、箱の底が傾いていないか調べている。
右腕を使わないのではなく、使い方を選んでいるようだった。
「そっちを押さえようか」と言いかけて、エリゼーは言葉を替えた。
「何か頼みたいことはある?」
ハインツは顔を上げた。
昨日の言い争いを思い出したのか、すぐには答えない。
「まだ考えている」
「分かった」
返事をしてから、彼女は自分が何もすることを与えられなかった子どものように感じ、腹を立てた。
箱の留め金を直したいのは、自分にも仕事があるからだ。
彼の傷の状態を知りたいだけではない。
それでも、手を出す理由の中に、彼が困っている姿を見たくないという気持ちが混じっている。
そこを分けようとすると、今度は親切そのものが偽物に思えてくる。
「この金具を少し押さえてほしい」
ハインツが言った。
エリゼーは喜びかけて、その喜びを隠した。
頼まれた仕事を丁寧にしすぎれば、受け入れてくれたことへの礼になってしまう。
彼女は指の腹で留め金を支えた。
金属はひやりとしていた。
ハインツが反対側のひもを締めると、箱がわずかに震える。
「これでいい?」
「うん。そこまでで大丈夫」
「もう少し押さえていた方が」
言いながら、彼女は指を放した。
自分の声が、頼まれた範囲を広げようとしているのを聞いたからだった。
ハインツが笑った。
「そんな顔をしなくても」
「どんな顔?」
「褒められたいのに、褒められたら怒る顔」
「ひどい言い方ね」
エリゼーも笑ったが、すぐには心から笑えなかった。
彼が見抜いたつもりになったことへ抵抗を感じた。
同時に、少し当たっているのが悔しかった。
箱は閉じた。
けれど机の端には、荷の行き先を書いた札が残っている。
「これは私が書いてもいい?」とエリゼーは聞いた。
「札は君の字の方が読みやすい」
彼女は筆を取った。
ハインツの役に立つ仕事を任されたから嬉しいのではない。
自分にできる仕事が、相手の許可を通って生まれたように感じるのが少し嫌だった。
彼が頼まれれば箱を支え、自分が頼まれれば札を書く。
それだけの話を、なぜ二人はこれほど遠回りするのだろう。
昼に近い頃、ヘルマンが机をのぞき込んだ。
「直ったのかい」
「留め金はね」とハインツが答えた。
「それじゃ、私はもう要らないわね」とエリゼーが言うと、ハインツは眉をひそめた。
「要るとか要らないとかの話じゃないだろう」
彼女は自分の軽口が、どこかに刺さったことを知った。
ヘルマンは何も言わず、水の入った杯を二つ置いた。
自分の前にも一つ置き、それを持ったまま席を外した。
その不器用な遠慮に、エリゼーは思わず息を吐いた。
ヘルマンが戻ってくる前に、杯の水面が少し揺れた。
何を言われたわけでもないのに、第三者の居場所が急に狭くなっているのを見た気がした。
自分とハインツの関係を守ろうとすることで、ほかの仲間にどれほど譲らせてきたのだろう。
二人が話すことは外から見れば小さな揉め事にすぎない。
けれど、その小ささの中に、ここまで生きてきた習慣が詰まっている。
「昨日、君に『手を出すなら聞いてくれ』と言ったけど」とハインツが口を開いた。
「ええ」
「何でも聞かれると、それはそれで面倒だな」
「でしょうね」
エリゼーは少し意地悪く答えた。
「じゃあ、どうしたい?」
「分からない。今日は、自分でできるか試したかった」
「言ってくれればよかったのに」
そこまで言って二人は顔を見合わせた。
言ってほしいことを相手へ預け続けている、と同時に気づいたのだった。
「私は、あなたが何かを試しているところを見守るのが苦手」とエリゼーは言った。
「失敗するかもしれないから?」
「失敗したら、それを見ていた自分に責任がある気がするから」
ハインツは箱へ視線を落とした。
「失敗の責任まで取られたら、俺には何が残るんだろう」
声は穏やかだった。
だからこそエリゼーは、何も言い返せなかった。
午後になり、エリゼーは札を書き終えた。
箱と札は別々の手の仕事だった。
一緒に仕上げた、と言えば簡単だが、彼女はその言葉を使わなかった。
彼は彼の判断をして、自分は自分の手を動かした。
隣にいることが、同じ決定をすることではないと、机の上に残った二つのものが教えてくれた。
二人が互いの意思を尊重しようとしても、苛立ちは残ります。助ける欲求と信頼の境界を、簡単な和解ではなく日々の小さな作業に託しました。




