第五部「交易都市編」 170 書かない一行
書かないことで守られる事実もある。
けれど、書かないと決めた理由まで、誰か一人の正しさにしてはならない。
旅舎の夜、ジュリアは机に並べた二枚の紙を見比べていた。
一枚は自分の手帳から写した聞き取りの整理で、もう一枚は、正式な記録として残すかどうか迷っている短い文章だった。
エリゼーは隣の椅子へ座らず、窓の近くで外を見ていた。
市場の明かりはまだ消えず、遠くの作業場から金具を置くような音がした。
「見てほしいのは、ここだけです」とジュリアが言った。
エリゼーは振り向いた。
「私が決めるの?」
「いいえ。あなたが読んだら何を想像するか、聞きたいんです」
ジュリアは指先で一行を示した。
その下には、調査の日付も資料の出典も書けていなかった。
形式だけを整えるなら、空欄を残せばよい。
けれど、整った書式は読み手に、ほかの欄もいずれ埋まるはずだという期待を持たせる。
「残しておけば、後で確かめる人が出るかもしれない」とジュリアは言った。
エリゼーは
「そうね」
と答えたきり、続けなかった。
「でも、確かめるために誰かへ尋ねることが、その人に新しい負担をかけるかもしれません」
二人はその可能性を同じだけ怖がっているわけではなかった。
だからこそ、どちらの慎重さが正しいかを急いで決めることもできなかった。
そこには、公開されていない証言と、別の記録に残された空欄とのあいだに関連があるかもしれない、という推測が記されていた。
文としては慎重だった。
「かもしれない」と書いてある。
誰の名も出していない。
けれど、読み手がそこから何を結びつけるかまでは、その言葉では止められない。
「これを読んだら、私なら理由を探しに行きたくなる」とエリゼーは言った。
「書いてはいけないでしょうか」
「私には決められない。でも、書いた人が何を見たのか、確かめたくなる」
ジュリアは息を吐いた。
「見ていないんです。私は証言を読んでいない。空欄がどうして空欄なのかも知らない。ただ、近いことを考えた」
「その考えが生まれたことは、あなたの事実ね」
「でも、正式な記録に残すべき事実かどうかは別です」
エリゼーは椅子を引いて座った。
並んだ紙の影が、灯りの下で重なった。
「以前なら、私は『慎重に』と言って、あなたの手を止めたと思う」
「今は?」
「止めたい気持ちはある。でも、それが正しいからなのか、私が何かを怖がっているからなのか、全部は分からない」
ジュリアは黙った。
相手の未完成な答えを聞くために、長く話してきたのかもしれなかった。
「私も、書きたい気持ちがあります」と言った。
「この二つが関係していたら、私は気づいた人になれる。誰かが見落としたものを、見つけた人に」
「それは、いけないことかしら」
「分かりません。ただ、それを望む自分がいると知った上で書くのと、望んでいないふりをして書くのは違うと思う」
エリゼーは返答を探さなかった。
廊下を人が通り、板のきしむ音がして消えた。
部屋の外でも、何かを決めずに過ごす夜が続いている。
ジュリアは筆を取り、正式記録の一行へ薄く線を引いた。
「消してしまうの?」
エリゼーの声には、止める響きがあった。
「こちらには書きません」とジュリアは答えた。
「でも、何を考えたかは自分の覚えに残す。推測だったと分かる形で」
「誰にも見せない?」
「それも、まだ決めません。見せる相手がいるなら、そのとき何を話してよいか、改めて考えたいです」
エリゼーは一度だけ頷いた。
自分より十ほど若い相手が、もう自分の教えに従う者ではないことを、嬉しいと感じる日もある。
今夜は少し寂しかった。
「あなたは、私が何も言わなくても同じことを決めたかもしれないわね」
「違うかもしれません」
ジュリアは紙を折らなかった。
まだ乾いていない線を、しばらく見つめている。
「でも、あなたが決めたことにするつもりもありません」
エリゼーはその言葉に救われ、同時に遠ざけられた気がした。
救われることと、相手を近くに置けることは別なのだ。
しばらくして、ジュリアが尋ねた。
「あなたなら、何を書きますか」
「読めなかったことと、確認できなかったことを、別々に書くと思う」
「私は、『その区別が必要だと気づいた』とも書きます」
「ええ。それはあなたの記録ね」
二人はそこで笑わなかった。
考えが一致したからといって、同じ人間になれたわけではない。
異なる言葉を残す余地が、二人の間に初めてはっきり見えた。
外の灯りが一つ消えた。
エリゼーは机の端へ手を置き、ジュリアは自分の紙へもう一行を書き足した。
それは誰かの秘密を書き写す行ではなかった。
「確認していないことを、確認したとは記さない」
短い文章だった。
けれど、その一行を書けるまでに、二人はこの都市で多くの人の話を聞き、多くの話を聞かずに帰ってきた。
終わったのではない。書かないと決めたことも、明日になれば問い直されるかもしれない。
エリゼーは紙の向こうにいる見知らぬ誰かを思い、何も決めつけずに灯りを見つめた。
第三幕は謎の解決ではなく、記録に対する判断の責任を深めて終えます。エリゼーとジュリアは同じ紙を見ながらも、別々の記録者として考え続けます。




