第五部「交易都市編」 169 語らない自由
沈黙の意味を、聞く側だけで決めてよいだろうか。誰にも話さない一日の中にも、人の選択は残っている。
アルマ・リスネルは、朝のうちに干しておいた布を裏返した。
洗い残した小さな染みがあり、指でこすれば薄くなるかもしれなかったが、今はそのままにした。午後にもう一度水を替えよう、と決めていた。
その程度のことを誰にも説明しないでよいのが、彼女には嬉しかった。
通りから人の声がする。
市場の仕事の話、出入りする荷車の話、誰が誰の名を呼んだかという話。
誰かの暮らしはいつも、知らない人の口からすぐ別の形になって戻ってくる。
アルマは布を吊ったまま、隣の家の戸が開く音を聞いた。
「手伝いましょうか」
隣人が声をかけた。布の端が低く垂れているのを見たのだろう。
「ありがとう。でも、このままで大丈夫」
「そう? 風が強いから」
「落ちたら、また洗うわ」
隣人は笑って去った。
アルマは自分の返事が少し意地悪だったかもしれないと思う。
親切を断ると、断った理由まで丁寧に渡したくなる。
そのたびに、理由を持っていないことが恥ずかしくなる。
部屋に戻ると、机の上には未完成の布袋が置かれていた。
誰かから頼まれたものではなく、自分で使うために縫っている。
縫い目が少し曲がっても、責める人はいない。
針を通しながら、彼女はかつて誰かに話した言葉のことを考えた。
窓際で縫っていると、外を通る人の靴音だけで、一日がゆっくり区切られていった。
アルマは一度針を置き、湯を沸かすために立った。
布袋を仕上げる期限はないのに、仕事を中断する自分へ弁明したくなる。
誰かに話したことを守ろうとすると、今度は誰にも話さないでいる自分が不誠実に見えることがある。
知っている人のために一言言うべきではないか。
黙っていたせいで何かが失われるのではないか。
その問いは誰かから押しつけられなくても、内側に生まれた。
だからこそ今日の湯の温度や糸の色を、自分で決めてみたかった。
その言葉を今ここで思い出したいわけではなかった。
聞かれたこと、話したこと、話さなかったこと。
その境界が自分の意志だけで守れた日ばかりではなかった、と体が覚えている。
ただ、その記憶を持っているからといって、今日の手つきまで過去の説明に差し出すつもりはなかった。
昼過ぎ、買い物のために外へ出ると、通りの角で若い女が声をかけてきた。
「アルマさん。前に、ここへ来た旅の人たちを覚えていますか」
アルマは相手の顔を見た。
悪意はなさそうだった。
何かを頼みたいのか、単に話をしたいのか分からない。
「何の用事?」
「記録を取っている人がいるって。そういう人なら、昔のことも聞いてくれるのかなと思って」
アルマは立ち止まった。
若い女自身に、話したいことがあるのかもしれない。
あるいはアルマの過去を尋ねたいのかもしれない。
その区別は、いまの言葉だけでは分からなかった。
「聞いてほしいことがあるなら、その人に自分で尋ねてみるといいわ」
「アルマさんは、聞いてもらいたくないんですか」
問いが鋭くなったのは、相手が意図したからではなさそうだった。
「今日は、買い物へ行きたいの」
若い女は困ったように笑った。
答えになっていないと思ったのだろう。
それでも道を空けた。
アルマは軽く礼を言って歩き出した。
胸が少し速く打っていたが、振り返らなかった。
人の問いを断るとき、立派な理由が必要だと感じるのは、誰のためなのだろう。
物を買い、釣り銭を確かめ、家へ戻る。
誰かが自分を勇敢な証言者と呼ぶことも、弱い被害者と呼ぶこともない時間を、彼女は手放したくなかった。
夕方、縫いかけの布袋を持ち上げると、縫い目はやはり少し曲がっていた。
直すかどうかをしばらく迷い、アルマはそのまま使ってみようと決めた。
きれいに見せるために、一度作ったものをすべて解く必要はない。
窓の外では、別の誰かが一日の出来事を大きな声で話している。
彼女はその声を聞きながら、今日の自分のことは誰にも話さず、糸の端を結んだ。
何も語らなかった日だった。けれど、何も選ばなかった日ではなかった。
アルマが過去に非公開で語った内容は開示しません。誰かの証言者という役割に閉じ込めず、日常の中で自分の行動を選ぶ人物として描きました。




