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第五部「交易都市編」第3幕 168 名を知らぬ救い

古い記憶は、時に名前より先に体へ戻る。覚えていないことにも、長いあいだ支えられることがある。

風が強い朝だった。

エリゼーは石楔旅舎の扉を押し、通りへ出ようとして少しよろめいた。

石段の隅に残った湿りが、靴の底を滑らせたのだ。


ハインツが近くにいたが、先に手を伸ばしたのは彼女自身だった。

扉の枠をつかむ。木の縁に指が当たり、その硬さだけで胸が跳ねた。


「大丈夫?」

「ええ。ただ、足を取られただけ」


ハインツはそれ以上支えようとせず、扉の横で待っていた。

エリゼーは礼を言い、歩き始めた。


少し遅れて、体の奥に別の冷たさが上がってきた。

幼い頃の、倒れたときの感覚だった。


ひどく鮮やかな記憶の断片ほど、信用してよいのか分からない。


光の色はその日の空のものだったのか、後で思い浮かべた夕暮れの色なのか。

土の湿りも、今朝の石段が呼び起こした感覚にすぎないのかもしれない。


教会へ戻ってから、何度も祈りの言葉を聞いた。

救いとはどういうものか、と教わることもあった。

けれど、その定義が幼い自分の体を通った冷たさまで説明してくれたことはなかった。


もし誰かにそのことを話せば、立派な意味を見つけてくれるだろう。

今日、彼女はその親切に、まだ近づきたくなかった。

濡れた土の重み、呼吸を探して空を見たこと、声にならないまま誰かの気配を待った時間。


記憶は順番どおりには戻らない。

何が先で何が後だったのか、長いあいだ考えてきたはずなのに、今日は木枠の手触りばかりが鮮やかだった。


「顔色が悪いぞ」とハインツが言った。

「思い出したことがあるの」


「今、話す?」

以前なら、エリゼーはすぐ話そうとしたかもしれない。

話すことで、出来事を自分のものにし直そうとして。

けれど今日は、首を横に振った。


「少し歩いてから」

二人は市場の外れを歩いた。


荷車の金具が鳴り、魚を売る声が遠く聞こえる。

今いるのが大きな交易都市だという事実が、体に戻るまで時間がかかった。


幼い自分を救った誰かの顔は、今も確かな輪郭を持たない。

思い浮かぶのは近づいてきた気配と、かすかな温かさ、息をすることを思い出させるような間だった。


それが実際にどんな手つきだったのかさえ、エリゼーには断言できない。

後になって何度も思い返した感覚が、最初の記憶へ重なっているかもしれない。


「私は、救われたんだと思う」と彼女は言った。

ハインツは歩幅を緩めた。

「思う、って?」

「助かったことは事実よ。でも、誰がどうしてそこにいたのか、私は知らない。分からないことを、ずっと分かったつもりでいたのかもしれない」

「感謝するには、名前が必要?」

問いには答えられなかった。


子どもの頃、彼女は名前を知れば、その人がなぜ手を伸ばしたのかも分かる気がしていた。

やがて名前のない救いを、神の呼吸のようなものとして考える日もあった。


けれど名前を与えられない行為を、神のものにしてしまうことも、誰か人間の働きを奪うことになるのではないか。


「私は、その人を知りたい」とエリゼーは言った。

「ああ」

「でも、知れば全部が変わる、とも思いたくない」


ハインツは右腕の袖を直した。

彼は自分の傷を見せることも、隠すことも自分で選んでいる。

その選択を代わりに説明するのは、今は違う気がした。


「知らないままで、ここまで来たんだ」とハインツが言う。

「ええ。それが時々、なぜか申し訳なくて」

「相手が何を望んだか分からないのに、申し訳ないと決めるのも早いんじゃないかな」


エリゼーは立ち止まった。

慰められたと思うべきなのだろう。

けれど、その言葉は少し冷たく感じられた。


「簡単に言うわね」

「簡単にしたくて言ったわけじゃないさ」

ハインツの返事も硬かった。

二人はすぐには顔を見合わせなかった。


しばらくして、エリゼーは小さく息を吐いた。

「ありがとう。それでも、知りたい気持ちは消えない」

「消さなくていいと思う」


二人は歩き始めた。

今日の出来事を話したからといって、昔の誰かの正体が近づいたわけではない。


市場の角で、幼い子が転びそうになり、自分で踏みとどまった。

エリゼーは反射的に手を伸ばしかけ、途中で止めた。

子どもは何事もなかったように走っていく。


彼女は差し出さなかった手を見た。助けることにも、助けられたことにも、相手に尋ねられない理由が残る。


それでも生きているという事実だけが、掌の中に確かに残っていた。

幼少期の救助者の名や正体、神の呼吸の起源はわかりません。記憶の身体感覚と現在の人間関係を重ね、知らないまま生きることを描きました。

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