第五部「交易都市編」第3幕 167 話すまでの時間
思い出す順番を、他人は決められない。黙っている人の時間は、聞く側には見えない。
ヘルマンは、旅舎の共同机に置かれた道具を一つずつ片づけていた。
出発の準備ではない。
誰かが使ったままの細い紐と木札を、邪魔にならないところへ寄せているだけだった。
ハインツが向かいに腰を下ろし、その手つきを見て言った。
「君は、待つのが得意だな」
「そう見えるだけさ」
「どういう意味?」
ヘルマンは紐を巻き直した。
結び目が固く、指先に食い込む。
「待てなかったことを、何度も覚えている」
それ以上は言わなかった。
ハインツもすぐには尋ねない。
二人の間で、椅子の脚が床に触れる小さな音がした。
共同の卓へジュリアが来た。
手には一枚の紙がある。
「記録のことで相談したいんです。話したくない人に、いつ、もう一度尋ねてもいいんでしょう」
「尋ねない方がいい、と言えれば簡単だけどね」とヘルマンは答えた。
「でも、尋ねなければ残らない事実もある」
「まぁそうだね」
ジュリアは思いがけないほど素直な肯定に、かえって困った顔をした。
ヘルマンは窓の外の道を指した。
「旅をしていると、よく道を聞くだろう。相手が忙しければ、先に通り過ぎるしかないこともある。戻ってもう一度聞けるかどうかは、道と同じようには決められない」
「道とは違いますよね」とジュリアが言う。
「違うよ。だから、うまく話せなくて今も困っている」
ハインツが腕を動かしてみせた。
右腕の動きは以前より自然になったが、無意識のうちに左手で袖を直している。
「今日は大丈夫かと聞かれると、大丈夫でいたくなることがある」と言った。
「聞かれたら、答えを出さなくちゃいけない気になる」
ジュリアは頷いた。
質問そのものが、答えるための時刻を決めてしまう。
ヘルマンは故郷の谷を思い出していた。
故郷の谷で、言葉が途切れた相手の前にいた時間を思い出した。
黙っている人へ次の問いを重ねれば、止まった会話を再び動かせると思いたかった。
けれど、その人が何を思い、何を語ろうとしていたのか、自分に確かめられたとは言えない。
谷の水路には、運べば積み直せる石があった。
言葉にはそれがない。
相手が答えなかった時間を自分の失敗として数えることさえ、結局は相手の沈黙を自分の物語へ移してしまうのかもしれない。
ヘルマンが記憶の細部を語らずにいると、ジュリアは続きを促さなかった。
彼はそのことにも、少し戸惑った。
道端で再会した顔、昔の水路、たどり着いたはずの場所で言葉が途切れたこと。
あのとき、問いを重ねれば誰かが昔を取り戻せると思いたくなった。
だが、記憶は水路の石のように積み直せるものではない。
誰かの手が届いたからといって、同じ形へ戻せるわけでもない。
「あの谷で、私は話さなかった人を見た」とヘルマンは言った。
ジュリアが顔を上げる。
彼は、誰のことかを続けなかった。
「話さなかったのか、話せなかったのか、私には分からなかった。でも、分からないことに耐えられなかったのは、たぶん私の方だ」
「聞かずにいたら、後悔しませんか」とジュリアは尋ねた。
「すると思う。聞いても後悔するかもしれない」
ハインツは短く笑った。
「役に立たない答えだな」
「そうだね」
ヘルマンも笑ったが、声はすぐに消えた。
ジュリアは紙へ何かを書くのをやめた。
今日は誰かに尋ね直す日ではない。
自分が何を待てないのかを知る日かもしれない。
「『いつなら話せますか』も、相手に約束を求める言い方ですね」
「場合によるだろう」とハインツが言った。
「訊かれて助かる人もいる。答えを迫られたと思う人もいる」
ヘルマンは頷いた。
「だから、相手の返事だけじゃなく、返事をしない選び方も残しておく必要があるのかもしれない」
ジュリアはその言葉を一度繰り返した。
彼女にとって、何も書かないことを職業として引き受けるのは、まだ難しいだろう。
外で夕食の仕込みが始まり、匂いが廊下を伝ってきた。
ヘルマンは結び目の固い紐を解くのを諦めず、ゆっくり指で押した。
もう一度引けば切れるかもしれない。
緩むまで待つのも、力の使い方の一つだ。
彼はついに紐をほどいたが、胸に残った問いまでほどけたわけではなかった。
誰かが語る日が来るかどうかも、彼には決められない。
それでも、決められないことを他人への不満に変えないようにしたいと思った。
ヘルマンの故郷に関わる重要人物の情報は公開しません。
聞き手が抱える焦りと、話す側に属する時間の違いを、三人の会話に残しました。




