第五部「交易都市編」第3幕 165 イレーヌの境界
知っていても、言えるとは限らない。
知らないことまで頼られるとき、人は何を返すのだろう。
イレーヌ・ヴァスカの机には、返事を書き終えた手紙が二通置かれていた。
どちらも封をする前で、宛名だけが乾くのを待っている。
紙の薄さも書き方も違い、一通は必要な言葉が少なく、もう一通は短くできなかった。
訪問を告げる声を聞き、彼女は筆を置いた。
入ってきたのはジュリアとエリゼーだった。
二人が並んでいるのに、同じことを尋ねに来たわけではなさそうだと、イレーヌはすぐに感じた。
「一般的な記録の扱いについて、ご相談したいのです」とジュリアが言った。
「私に答えられる範囲なら」
言い慣れた返事だった。
けれど今日は、その言葉が先にあることで、相手を閉め出したような気がした。
イレーヌは二人に椅子を勧め、用件を聞いた。
特定の文書の所在ではなく、非公開の証言や不明な欄を、ほかの記録とどう区別して考えればよいかという問いだった。
「誰がその文書を見られるか、私には判断できません」と彼女は最初に言った。
「私は受付の権限も、調査の権限も持っていません」
ジュリアは頷いた。
「それを前提に聞きたいんです」
イレーヌは、手紙の上に視線を落とした。
片方の手紙には、先方が望んだ呼び名を間違えないように何度も確かめた跡があった。
もう片方には、確認できない数字をあえて書かなかった。
仕事の机に残る痕跡が、いつも正しい判断の証拠になるとは限らない。
それでも今の自分ができたことを確かめるには、その跡しかない。
二人を前にして、イレーヌは自分の経験を少し広く語れば助けになるかもしれないと思った。
言葉の端に知っている人物の事情を匂わせるくらいなら、
規則を破ったことにはならないだろうか。
その考えが浮かんだだけで、彼女は内心一歩引いた。
前提が守られるなら何でも話せる、というわけでもない。
「言葉の扱いなら、お話しできます。書かれていない欄を見て、誰かが意図的に削ったと書けば、それ自体が新しい主張になります」
「でも、何も書かないと気づかれません」とジュリアが言う。
「気づかなかったことと、確かめていないことは違います」
言いながら、イレーヌは自分がどれほど同じ言葉を繰り返してきたか思い出した。
相手に役立つ答えを渡したくて、いつも同じ慎重さへ戻ってしまう。
エリゼーが尋ねた。
「話を聞いた相手が、名を出さないでほしいと言ったら?」
「その依頼がどの範囲を指すのか、確認する必要があります。でも、確認すること自体が負担になることもあります」
「その場合は?」
イレーヌは口をつぐんだ。
相談を受けている以上、何かを返すべきだと思った。
だが、自分には個別の事情を判断する材料がない。
「相手の答えを待つしかない場合もあります。私に言えるのは、その待ち方を、記録に残る言葉で乱暴にしないことです」
ジュリアが手帳を開き、少し考えて閉じた。
「あなたは、仕事でこういう相談を受けるとき、苦しくなりませんか」
思いがけない問いだった。
「なります」とイレーヌは答えた。
エリゼーが視線を上げる。
イレーヌは、その顔に自分への期待を見た気がした。慌てて言葉を続ける。
「助ける方法を知っているように見られることがあります。
でも、方法を知っていても、使える立場でないことがある。
それを言うと、冷たい人間だと思われるでしょう」
「そう思ったことはありません」とジュリアが言う。
「今は、でしょう」
軽く返したつもりが、声が少し鋭くなった。
ジュリアは黙り、イレーヌはすぐに後悔した。
目の前の人へ向けるべきではない苛立ちを、仕事の境界のせいにしてしまった。
「ごめんなさい」とイレーヌは言った。
「私も、自分の断り方には慣れません」
ジュリアは微かに首を振った。
「私は、断られたときに何を守っているか、考えずにいたのかもしれません」
窓の外から、誰かが荷台を引く音がした。二人の訪問者は礼を述べ、長居せずに立った。
イレーヌは彼女たちを見送ってから、封を待っていた手紙へ戻った。
紙はもう乾いている。彼女は一通を畳み、もう一通を読み直した。
相手の役に立ちたいと願うほど、自分の権限を広く言いたくなる。
その誘惑は今日も消えなかった。
だから彼女は、返事の最後に書いた一語を消して、少し狭い言葉へ書き直した。
できることを狭く言うのは、助けたくないからではない。
そう胸の中で言い直し、彼女はようやく封をした。
イレーヌは調査官ではなく、一般的な記録の扱いについて口頭で相談を受ける人物です。
役に立ちたい願いと権限の限界が、同時に存在する姿を描きました。




